残された時間は私のものだ

残された時間は私のものだ

澪ヶ丘 遥​ · 連載中 · 387.8k 文字

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紹介

絶望の診断書を握りしめたその日、彼の元カノが夫のバスローブを羽織って、私たちの新居の浴室から出てきた。

3年間の結婚生活、私は一度も彼の妻ではなかった。ただ名ばかりの「身代わり」に過ぎなかったのだ。

残された時間はもう少ない。この婚姻のために3年間張り詰めていた心の糸が、ついに切れた。綺麗さっぱりと、もう修復の余地はない。

自分を一度も選択肢に入れなかった男のために、ただ死を待つだけのような余生を費やすつもりは毛頭ない。

今度こそ、私は私自身の人生を選ぶ。

チャプター 1

「白石様、こちらのご病気は極めて稀です。このまま治療を受けなければ、命に関わる恐れがあります」

病室で医師は、カルマン症候群と確定した診断書を白石紬に差し出した。

「申し訳ありません。当院では医療体制に限界があります。スイスのほうに関連する治療法があると聞いています。ご家族とご相談の上、できるだけ早くご決断ください」

紬は分厚い診断書の束を受け取る。指先が震えた。

長いこと迷った末、ようやく夫――一ノ瀬蓮へ電話をかける。

何度鳴らしても出ない。諦めかけたそのとき、ふいに通話がつながった。向こうは騒がしい。

「何か用?」

蓮の声は苛立ち気味だった。

紬が口を開こうとした瞬間、受話器越しに甘くか細い女の声が割り込む。

「蓮、あなたのガウン、着てもいい?」

胸がきゅっと締めつけられた。――また、女?

「いいよ」

蓮はそう答えると、電話のこちらへ向けて淡々と言った。

「今忙しい。切る」

ぷつり。通話は一方的に終わった。

蓮には潔癖がある。人に自分の物を触らせない。

それなのにガウンを着せるなんて、相手はただの「他人」ではないのだろう。

紬は携帯を握ったまま、しばらく呆然としていた。

ただ、ひどく疲れた。

こんなことは、三年間の結婚生活で一度や二度ではなかった。

彼女と蓮は政略結婚だ。祖父から相手が蓮だと聞いたとき、紬はしばらく浮かれていた。

ずっと密かに想い続けてきた相手。結婚できるなんて、夢にも思わなかったから。

けれど嫁いでみれば、そこは幸せの終点ではなく、悪夢の始まりだった。

結婚して三年。蓮は終始、冷たくも優しくもない距離のまま。外の女との噂ばかりが絶えない。

上流階級の連中は陰で嘲笑った。――名ばかりの一ノ瀬夫人。

蓮は噂を隠そうともしない。むしろ紬に知らせることすら躊躇しなかった。

問い詰めるたび、彼は冷たい視線を投げ、唇に嘲りを浮かべる。

「俺たちはただの政略結婚だ。お前、口出しが過ぎる」

最初は苦しくてたまらなかった。

やがて、感覚が鈍っていく。

彼はわざと――彼女を上流の輪の中で笑いものにするために、そうしているのだと気づいてからは。

紬は魂が抜けたように家へ戻った。

玄関を入るなり、リビングのソファに座る姑――一ノ瀬由美子が目に入る。顔色は暗く、苛立ちが滲んでいた。

「よく帰ってこられたわね?」

由美子は数枚の写真をテーブルへ叩きつけた。

「見なさいよ、あなたのやったこと! 自分の夫も繋ぎ止められないくせに一ノ瀬夫人が務まると思って? 役立たず!」

紬が写真に目を落とす。

蓮と若い女が、プライベートクルーザーのデッキで寄り添い合うツーショット。

女が身にまとっているのは――蓮がよく着ている、濃いグレーのシルクのガウン。パパラッチに撮られていた。

由美子は冷たく言い放つ。

「方法は何でもいい。今すぐこのニュースを揉み消しなさい! 蓮はもうすぐ重要な海外M&A案件を取り仕切るの。株価にもイメージにも、傷ひとつ付けられないわ!」

紬は俯き、小さく答える。

「……わかりました、お義母さま」

蓮が噂を起こすたび、姑は息子を叱らない。責められるのはいつも紬で、尻拭いも彼女の役目だった。

「本当に理解できないわ。どうしてあのキヨお義母様が、あなたを孫嫁にしたがったのか。何の取り柄もないのに」

由美子は吐き捨てるように呟き、立ち上がって去っていった。

紬は写真を拾い上げ、改めて確かめる。

そこに写る女の顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。

――川口雪乃。

蓮の初恋の相手。

帰国したの?

紬はすぐにコメント欄を開いた。祝福ばかりが並ぶ。

「川口さんと一ノ瀬さん、絵になるカップル! 学生時代から付き合ってたって聞くし、一ノ瀬さんが彼女のためにクルーザー丸ごと貸し切ったとか最高」

「結婚してるなんて信じないなあ。あれだけ川口さんを愛してるのに、他の女を娶るわけない」

紬が蓮に嫁いでから、彼は公の場で妻の存在をほとんど明かさなかった。

まるで――彼の世界に、彼女の居場所などないかのように。

だからメディアも「一ノ瀬蓮は独身」だと信じ込んでいた。雪乃を待ち続けているのだ、と。

芸能ニュースは大々的に煽り立てる。

一ノ瀬グループ社長、初恋とクルーザー密会。復縁か――。

写真の雪乃は花のように笑い、蓮に寄り添う。

蓮は甘い眼差しで見つめ返し、腰を抱く手まで優しい。

――こんな顔、紬は一度も見たことがなかった。

冷淡な人なのではない。

優しさを注ぐ相手が、最初から決まっていただけ。

紬の心は、ゆっくり沈んでいった。

雪乃の存在を知ったのは結婚してからだ。

当時、祖母のキヨが交際に反対し、雪乃は勢いで海外へ。蓮はそれを紬のせいだと思い込み、いつも不機嫌だった。

これまでのゴシップは場を飾るだけの遊びだと、紬にもわかった。

だが雪乃は違う。今回ばかりは――本気だ。

夜更け、ようやく蓮が帰宅した。

リビングの灯りがついているのを見て、彼は眉をひそめる。

「まだ寝てないのか」

紬はテーブルの写真を押しやった。

「お義母さまが処理しろって」

蓮は写真を一瞥し、眉間の皺を深くする。

「名ばかりの一ノ瀬夫人として、やることだけやれ。余計なことに首を突っ込むな」

紬は静かに見上げた。

「……今回は、本気なの?」

「お前には関係ない」

蓮は冷たく返すと、コートを脱いで浴室へ向かった。

紬は小さく首を振り、いつものように彼の上着を拾い上げる。クリーニングに出すためだ。

三年間、彼女は忠実な家政婦のように蓮を世話してきた。感謝など一度もない。むしろ、一ノ瀬夫人になるためなら何でもする女だと嘲られてきた。

もう、疲れた。

悲しみも痛みも、麻痺していく。

ふと、視線が襟元で止まる。

口紅の跡。――相手は、考えるまでもない。雪乃だ。

写真の密着した姿が脳裏に蘇り、紬の目の縁が一気に熱くなった。

そのとき、携帯が鳴る。病院からだった。

「白石様、スイスの病院に連絡が取れました。教授がレポートを確認し、受け入れを承諾しています。ただ、スケジュールが非常に厳しくて……これが直近で最後のチャンスになります。なるべく早くご検討を……」

紬は蓮の襟の口紅を見つめたまま、顔を上げた。

「……迷いません。行きます」

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私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。

さらに劇的なことに、私の実の親はこの街で頂点に君臨する最高峰の大富豪だった。

そして私の婚約者——すでに顔を合わせているにもかかわらず、その正体を知らなかったあの男こそ、この街の誰もが名前を聞くだけで震え上がる、ビジネス界の冷酷な死神:梅原晴琉だったのだ。

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「心拍数は確かに少し高めですが、非常に健康的です。心配ありませんよ」

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