紹介
けれど、終末期心不全だと告げる診断書を握りしめて家の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、夫と両親が妹の美愛を囲んで乾杯している光景だった。彼らは「合法的な書類」で、わたしの最後の手術費まで奪い取っていた。
胸を裂くような激痛に耐えながら、血を分けた家族だと縋りつき、どうか生きる道をくれと乞うた。
だが――信託契約書が容赦なく顔に叩きつけられたとき、ようやく理解した。
この人喰いの化け物たちの目には、わたしの生死など、美愛の咳ひとつより軽い。
そして、いちばん致命的な刃は、いつだって血の繋がった者が突き立てるのだ。
チャプター 1
屋敷の外。病院の用紙を握りつぶすように掴み、指先が白くなる。息を整えることすらままならないまま、わたしはリビングの扉を押し開けた。
「乾杯!」
澄んだグラスの音と、弾む祝福の声。針みたいに耳の奥へ刺さる。
仕立てのいいスーツを纏ったわたしの夫・颯斗は、美愛に寄り添い、親密そうにシャンパンを注いでいた。ソファには両親が並び、にこにこと二人を見守っている。
……なんて、仲のいい家族。
鈍い痛みを飲み込み、壁に手をついて一歩ずつ進む。胸の奥がきしみ、息が漏れる。
それでも、かすれそうな声で呼んだ。
「颯斗……!」
颯斗が振り向いた。そこにあったのは、露骨な嫌悪。
「署名しろ」
彼は書類を一束、わたしの足元へ放り投げた。
呆然と見下ろす。紙の上に並ぶ名前――わたしの名前。指先が震える。
「……なに、これ……?」
「信託契約だ。お前がサインすれば、共同口座とこの家の受益者は全部、美愛に移る」
颯斗はシャンパンを一口。まるで夕食の話でもするみたいな軽さだった。
爪が掌に食い込み、痛みで我に返る。目の前の男を睨みつけた。十年、愛した男。
「……全部、彼女に渡す気?」
「お姉ちゃん、颯斗さんを責めないで」
美愛が瞬く間に目を赤くして、慣れた仕草で颯斗の背に隠れる。
「先生が言ってたの。わたしのうつ病、トップの施設なら治るかもしれないって。すごく大事なチャンスなの……颯斗さんは、わたしが安心して行けるように――」
「それ、婚姻中の財産よ」
わたしは美愛の「弱い顔」を見つめた。いつもそうだ。
すぐさま母が立ち上がり、指を突きつけて怒鳴る。
「晴美! あんた、姉としての良心はないの? 美愛がどれだけ重い病気か分からないの? 家と貯金を譲ったっていいじゃない! 颯斗が養ってくれるんだから、あんたは困らないでしょ。何を争うのよ!」
「……養って、くれる?」
乾いた笑いが漏れた。
わたしが家に入って子どもの世話をするようになってから、支出は全部、彼の機嫌次第。食費でさえ一日1000円ずつ渡される。足りない分は、夜中にこっそり図面の修正の仕事を受けて埋めていた。
息を吸い直し、手に握っていた書類を颯斗へ差し出す。
「お金が必要なの。本当に。医者に言われた……心不全。手術を準備しないと、二か月もたないって」
リビングが一瞬、しんと静まった。
次の瞬間――颯斗が嘲笑した。
彼は書類をひったくり、目も通さずにビリビリと破り捨てる。床へ放り投げ、革靴の先で二度、ぐりっと踏みつけた。
「晴美。美愛と張り合うために、偽の病歴まで買うようになったのか?」
見下ろす眼は嫌悪で濁っている。
「金をせびるための芸……吐き気がする」
「嘘じゃない!」
声が掠れた。
「ちゃんとした病院よ。印もある……正式な通知なの!」
「もういい!」
父が茶几を叩いた。顔いっぱいに失望を貼り付けて。
「妹が病気だというのに、仮病で治療の機会を奪う気か。どうしてこんな冷血で自分勝手な娘に育った!」
……わたしの父。母。妹。夫。
全員が、わたしを「敵」だと見ていた。
胸が、ぎゅっと掴み潰される。視界が揺れ、喉がひゅうひゅう鳴った。
わたしは膝から崩れ、床に倒れ込む。
「芝居はやめろ」
颯斗はわたしの青白い顔を一瞥し、淡々と告げた。
「たとえお前が死んでも、妹の邪魔はさせない。――一分だ。署名しろ」
「美愛の慈善晩餐会用ドレスの試着に付き合う。時間の無駄だ」
床の書類を冷たく見下ろし、言い捨てる。
「戻ったとき、まだここにあったら許さない」
そう言うと、彼は背を向けた。もう二度とこちらを見ない。
両親も美愛を優しく囲い、玄関へと向かっていく。
わたしは胸を押さえ、床で丸まった。痛みで言葉がつながらない。
そこへ、小さな影がしゃがみこんだ。七歳の息子、空。
必死に手を伸ばし、少し先の電話を指さす。
「空……お願い……ママの……救急車を……」
空は俯いた。泣きもしない。慌てもしない。
そして――わたしの指先を、ぱんっと叩き落とした。
「美愛ママの言うとおり」
高慢で、嫌悪に満ちた瞳。幼い声が刃になって心臓へ突き刺さる。
心不全の痛みより、深く。
「ママは嘘つきの貧乏人だもん。救急車なんて呼んだら、パパと美愛の邪魔になる」
空は大きな扉を閉めた。
闇と冷たさだけが残る床に、わたしは一人きりで取り残される。
そのとき、心臓を捻じ切るような痛みが走った。身体ががくがくと痙攣し、力が抜けていく。
スマホに手を伸ばそうとして――指は空を掴んだ。
……ない。
スマホが、消えていた。
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だが三日経ち、また三日経っても彼女は戻らない。兄たちは次第に焦り始めた。
長兄:「なぜ最近、こんなに体調が悪いんだ?」――彼女がもう滋養強壮剤を届けてくれないからだ。
次兄:「会社のファイアウォールは、なぜこうも問題ばかり起こす?」――彼女がメンテナンスに来なくなったからだ。
三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。
兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」
彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
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