紹介
結婚して5年。冷徹な夫のためにすべてを捧げ、家政妇同然に扱われながらも、法務部部長として夫の会社を支え続けてきた主人公。
しかし、胃の激痛に耐えかねて訪れた病院で告げられたのは、「がんの末期」という残酷な余命宣告だった。
そんな彼女を待っていたのは、あざとい夫のお気に入りの女性を隠すための身代わりにされる日々。
ついに限界を迎えた彼女は、1枚の離婚届と辞職願を突きつけ、大雨の中へと決别した。
元夫とその家族は嘲笑っていた。「どうせすぐに金を求めて泣きつくだろう」と。
そしてある夜、激痛で気を失い倒れた主人公に対し、元夫の弟は「同情を誘うための演技だ」と、衆人環視の中で氷水を頭から浴びせる。
元夫もまた、冷酷に彼女を地べたに突き放し、愛する女を抱きかかえて去っていった。
しかし、彼らは何も知らなかった。彼らがドブに捨てた元妻の本当の価値を。
チャプター 1
「雪見さん。癌は全身に転移していて、ステージ4です。できるだけ早く抗がん剤治療を始めましょう」
病院の廊下。頭上から落ちる冷たい白色灯が目に刺さり、雪見晴美(ゆきみ はるみ)は立っているだけで眩暈がした。
検査結果の紙を握りしめたまま、呆然と長い時間を過ごし――ようやく一本の電話をかける。
延々と鳴る呼び出し音のあと、傲慢な声が出た。
「奥さま。どうなさいました?」
和也の秘書だ。
「和也は……?」
喉がカラカラで、声が掠れる。
「社長はお忙しいのでお取り次ぎできません」秘書は苛立ちを隠そうともしない。「ご用件は私に」
晴美は口を開けたまま、結局和也を探すのを諦めた。
「……私、病気なの。治療費が必要で。口座に100万、振り込んでもらえない?」
「100万?」電話口の声が露骨に嘲る。「奥さま、ずいぶんお高い“ご病気”になられましたね。でも規定では、五万円を超える支出は事前に申請書が必要です。お金が欲しいなら、手続きを踏んでください」
「待っ――」
言い切る前に、ぷつりと切れた。
ツーツーという無機質な音を聞きながら、晴美はその場でふっと笑ってしまう。
藤原和也(ふじはら かずや)と結婚して五年。名目は藤原家の奥様でも、実態は怯えて暮らす家政婦のようなものだった。衣食住は和也の機嫌次第。金を使うのも秘書の気分次第。機嫌がいい月は生活費五万円、悪ければゼロ。臨時の出費は必ず申請、でなければ火の車でも一銭も出ない。
これまでは耐えてきた。けれど今日は――耐えられない、と唐突に思った。
晴美は目を伏せ、秘書の番号を迷いなくブラックリストに放り込んだ。病院を出た瞬間、スマホに刺々しいニュース通知がいくつも弾ける。
――【衝撃!藤原和也、謎の女と洲際ホテルに出入り。浮気疑惑!】
――【藤原和也、離婚危機?オークション会場で愛のために大散財】
――【白いドレスの女の正体、ついに判明!】
ゴシップのどれにも、半月近く家に帰っていない男が映っていた。共通しているのは、傍にはいつも儚げな白いワンピースの女がいて、和也の顔には――晴美が見たこともないほどの優しさが浮かんでいること。
電話がいつも話し中だったわけだ。新しい恋人の相手で忙しかったのだろう。
胸の奥に、言葉にできない渋みが広がる。晴美はタクシーを拾ってその場を離れた。
帰り道、スマホが震える。画面に浮かんだ名前は――和也。
「病気で金がいるんだって?」
男の声は淡々として、温度がない。
晴美の睫毛が微かに揺れる。言葉を探す前に、相手は勝手に命令した。
「洲際ホテルの駐車場。三十分以内に来い。ついでに、替えの服を一式持ってこい」
拒否の余地も与えず、通話はまた切れた。
胃の痛みが、その冷酷なツーツー音に引きちぎられるようにズキズキと脈打つ。晴美は鎮痛剤を二錠飲み込み、家で服を取って洲際ホテルへ向かった。
駐車場に着くなり、黒いマイバッハが目に入った。H市で和也だけの車。
窓を叩くと、ガラスが半分だけ下がり、久しぶりの男の顔が現れる。
仕立てのいい白シャツが広い肩と細い腰を際立たせ、片手で額を支える姿は気怠げだ。襟元のボタンが二つ外れ、鎖骨が覗く。
そして、その白い襟に――淡い口紅の跡。
覚悟していたはずなのに、心臓を鋭く刺された。
「来たか」和也は淡く言う。「ちょうどいい。外に鬱陶しい記者がいる。処理してこい」
煙草に火を点け、軽く言い捨てる。
「向こうは口が悪い。葵が聞いたら傷つく。連中に“お灸”を据えておけ」
全身が冷え切った。胃の痛みが胸に移り、息が詰まるほど苦しい。
「……どう処理しろっていうの」
和也は眉をひそめ、目の色を沈める。
「藤原グループの法務部総監だろ。こんなことも俺に教わるのか?訴えるなら訴えろ、警告するなら警告しろ。葵に不利な言葉が流れるのは許さない」
守り方が徹底している。毒を塗った銀針みたいに、晴美の心に突き刺さる。
拳を握りしめ、震える声を絞り出した。
「……私に、婚姻を壊した女の名誉を守れって?」
和也の顔が一気に冷える。
「立場を弁えろ。俺たちの結婚がどうやって成立したか、お前が一番わかってるはずだ」
晴美は青ざめた。胃がひっくり返るように痛む。
「藤原さんのおっしゃるとおり」
彼女は顔を上げ、白い唇で薄く笑った。
「私に資格はありません。――でも、この仕事はもう無理です。別の方に」
服を車内に差し入れる。眼は、死んだ水面みたいに静かだった。
和也の瞳に冷気が深く沈む。
「俺に反抗してるのか?」
可笑しい。反抗する資格すらないのに。
「誤解です」
白黒はっきりした瞳に、男の冷たい横顔が映る。
「ただ……もう、やめたいだけ」
服を置いて背を向けた瞬間――手首を掴まれ、強引に車内へ引きずり込まれた。
「何するの?!」
抵抗する間もなく、和也の大きな身体が覆いかぶさる。馴染みの木質の香りに、吐き気を催す甘ったるい香水が混じり、晴美の胃がきゅっと縮んだ。
男は容易く彼女を押さえ込み、意地の悪い笑いを含んだ声で囁く。
「嫉妬か?」
輪郭の整った顔が近づく。目の奥の投げやりさと支配欲が丸見えだ。
「ちょうど本家が子どもを催促してる。今日、ひとり作るか」
薄いタコのある指先が、抵抗を無視して服の裾に入り、慣れた動きで敏感なところを捉える。夫婦でいた年月だけ、彼は“彼女が崩れる場所”を知り尽くしていた。
晴美の頭が真っ白になる。
他の女と温存したあと、その女の香りをまとったまま――どうして、私に触れられるの。
「放して!」
必死に身をよじる。淡いブルーのニットは乱れ、白い顔に怒りで赤くなった目が、怯えた獲物のようだった。
その姿が、男を止めるどころか、欲を濃くする。
「何が嫌だ」和也は鼻で笑う。「前は毎日みたいに子ども欲しがってたくせに。いざ望み通りになったら、気取るのか?晴美、駆け引きは俺に効かない」
違う。いらない。もう何も。
理性が崩れ、ただ本能で押し返す。けれど力の差は歴然だった。和也は言葉を切り、彼女の両手を押さえつけ――容赦なく奪った。
「――っ、あ……!」
晴美の悲鳴。涙が本革シートに落ち、思考は暗い空白に沈む。
どれほど続いたのかもわからない。
終わったとき、晴美は溺死寸前の人間みたいに息を乱し、ドアを押して逃げようとした。
「そのまま出る気か。笑いものになりたいのか?」
和也が腕を掴む。
晴美は俯いて、ようやく気づく。服は半壊し、露わになった肌には生々しい赤い痕が散っている。誰が見ても、車内で何が起きたかわかる。
唇を噛み、無言のまま外へ向かう。
和也は眉を寄せ、ジャケットを脱いで乱暴に肩に掛けた。
その瞬間――「カシャッ」と眩しい白光が閃いた。
反射的に手を上げると、どこから湧いたのか、無数の記者が押し寄せ、カメラとマイクが晴美を取り囲んだ。
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***
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