紹介
五年後、私は最高峰の医術と二人の可愛い子供を連れて戻ってきた。今や世間の人々は私のことを名を轟かせるアヤメ先生と呼んでいる。
江原翼は目を赤くして私の前に立ちはだかり、声を詰まらせた。「雪音、俺たちの子供は……まだ生きているのか?
チャプター 1
交通事故が起きた、その瞬間――水宮雪音の頭は真っ白になった。
二台の車が激しく衝突し、フロントはぐにゃりと潰れて、彼女の身体を運転席に容赦なく挟み込む。エアバッグが間一髪で開かなければ、今ごろ彼女はこの事故で死んでいたはずだ。
胸より下のあらゆる場所が、鋭い痛みを訴えてくる。さらに致命的なのは、どこかでガソリンが漏れている匂いがしたことだった。
今日は玉突き事故。
ここから逃げ出せなければ、衝撃で死なずとも――爆発に巻き込まれて死ぬ。
それでも雪音は、腹をかばうようにそっと手を当て、震える指でスマホを取り出す。最後の力を振り絞って、江原翼に電話をかけた。
これが、最後になるかもしれない。
かわいそうに――この子は、まだこの世界を一度も見ていないのに。
コール音は鳴り続け、いつまでも繋がらない。機械的な女性のアナウンスが繰り返されるたび、心がじわじわ冷えていく。
……死ぬって時にさえ。
翼は、私の電話に出ないの?
私の訃報を見たら、きっと喜ぶんだろう。
だって、笹谷幽々子と結婚できる。
絶望も、苦さも、痛みも、いっぺんに押し寄せる。するとそのとき、下腹部に突き刺さるような激痛が走り――何かが、ゆっくり流れ出ていく感覚がした。
「……っ」
雪音は青ざめて、必死に腹を押さえた。
その瞬間。
窓の外を、江原翼の影が横切った。
助けてくれる――そう思ったのに。
彼は雪音の車には立ち止まらず、前方の車へと駆けていく。
雪音はぼんやりとした視界で見つめた。翼はスーツ姿のまま、肘で前車のガラスを叩き割り、ドアをこじ開け、中の女をそっと抱きかかえて引き出した。
――笹谷幽々子。
それ以外、あり得ない。
声を出したくても出せない。痛みで景色がぐるぐる回り、意識が遠のく。ぼやける視界の端で、誰かがこちらの窓を必死に叩き、雪音を引きずり出したように見えた。
そして外へ逃げた直後――車が爆発した。
轟音。熱。炎。
事故現場は一瞬で火の海となり、水宮雪音の世界は完全な闇へ沈んだ。
――
目を覚ましたとき、そこは病院だった。
雪音は重い頭を持ち上げ、白く冷たい天井を見つめ、点滴の針が刺さった手の甲を見下ろす。
事故直前の記憶が、遅れて脳裏に蘇った。
……私、生きてる。
助けてくれたのは――たしか、村坂博だった。
病室のテレビでは臨時インタビューが流れている。
あのとき車内から見た光景、そのままだった。
江原翼は迷いなく笹谷幽々子を救いに行き、スーツ姿で両手を血に染めていた。救い出したあと、彼の顔には安堵と――大切な宝物をやっと見つけたような慎重さが浮かんでいる。
数分の映像。
なのに一秒一秒が、見えない刃となって雪音の心を切り刻んだ。
私は……彼の妻なのに。
翼は、最初から私なんてどうでもよかった。
そんな現実を、テレビが容赦なく突きつけてくる。
……これで終わり、と思った。だが画面が切り替わり、江原翼の単独インタビューが映った。
スーツには埃がつき、だが彼は気にも留めない。高精細の映像の中でも、その顔立ちは相変わらず整っていた。
「慈善団体に1億寄付します。貧困地域の子どもたちに教育の機会を。――ただ、幽々子が無事で健康でいてくれれば、それでいい」
その動画は瞬く間にトレンド入りした。
雪音は呆然と眺めた。
脳裏に浮かぶのは、自分に向けられていたあの冷たい目、苛立ち、うんざりした表情。
かつて彼のために跳ねていた心臓が、この瞬間、完全に止まった気がした。
雪音はゆっくり目を閉じる。
一筋の涙が頬を伝った。
……笑える。
私は事故で生死の境をさまよっていたのに、夫は別の女を救って、善行まで積み上げている。
ドラマでもこんな露骨な絵面は作れない。
それが現実で――しかも、自分の身に起きた。
目を開いたとき、雪音は決めていた。
馴染みの弁護士に電話をかける。
「今すぐ離婚協議書を起草してください。至急で。財産分与は一切不要。私が身ひとつで出ます」
弁護士が来るのは早かった。
雪音はペンを握り、ゆっくり、けれど迷いなく自分の名前を書いた。
これで、江原翼とは――もう何もない。
署名したその瞬間、下腹部にさらに歪むような激痛が走った。
雪音は再び意識を失った。
医師が駆け込んできて叫ぶ。
「手術室を! 大出血です、早産になる可能性が高い!」
――
その頃。
江原翼は別の病室の窓辺に立ち、険しい顔をしていた。
発信履歴を見下ろす。
かけてもかけても、繋がらなかった電話。
眉間に浅い皺が刻まれる。
水宮雪音が、彼の電話に出ないことなんて今まで一度もなかった。
背後で笹谷幽々子がゆっくり目を覚まし、かすれた声で呼ぶ。
「翼……」
江原翼ははっとして振り返る。
「起きたか。どうだ、どこか痛むか?」
幽々子は泣きそうな顔で言った。
「全身が痛い……」
江原翼はスマホを手に病室を出る。
「医者を呼ぶ」
廊下に出ると、助理が待っていた。
江原翼の声には、本人すら気づかない焦りが混じっている。
「まだ水宮雪音は見つからないのか?」
助理は怯えたように答えた。
「江原様……奥様は本日の玉突き事故に巻き込まれている可能性が高いです」
皺がさらに深くなる。
今日の事故が、どれほど惨烈な被害を出したか――彼は知っている。
雪音が……?
江原翼が動こうとした、そのとき。病室の中から幽々子の苦しそうな声が飛ぶ。
「翼、手が……すごく痛い。入って、そばにいて……」
江原翼は足を止め、振り返らずに命じた。
「今すぐ水宮雪音を探せ。何があっても――腹の子だけは絶対に無事でいろ」
助理は即座に頷く。
「承知しました」
江原翼の胸に、不穏なざわめきが広がる。
だが、その正体を掘り下げる前に――怒りをまとった影が突進してきた。
「江原翼! お前、人間かよ! 雪音に何をしてきた!」
村坂博が歯を食いしばり、拳を振り抜く。
江原翼は身をかわし、二発目を片手で受け止めた。冷たい目に苛立ちが混ざる。
「……何の真似だ」
江原翼は乱暴に手を振り払い、吐き捨てる。
「水宮雪音はどこだ」
村坂博は二歩退き、言い放った。
「お前に聞く資格はない。雪音が受けた傷を、彼女は一生許さない」
村坂博は胸元から書類を取り出し、江原翼に叩きつけた。
「今すぐサインしろ」
江原翼はしゃがんで拾い上げる。
そこに大きく書かれていた文字――離婚協議書。
顔色が一気に変わった。
最下段には、水宮雪音の整った筆跡がある。
江原翼は怒りを抑えて低く言った。
「これはどこからだ。水宮雪音を呼べ。今すぐ会わせろ。でないと――」
村坂博が笑った。
その笑い声には、悲しみが滲み、背筋が凍るほどだった。
「雪音は、もうお前の前に現れない。死んだ。あの事故でな」
江原翼の身体が硬直する。
「……何だと」
村坂博は冷たく嗤う。
「協議書の血、見えるか? 雪音が死ぬ間際、最後の息で書いたんだ。三人分の命だ。江原翼、お前は何で償う?」
江原翼はその場に釘付けになり、信じられないという顔をする。
「……嘘だろ」
「サインしろ。お前は雪音と何の関係も持つ資格がない」
江原翼は床に落ちた書類を、震える手で拾い上げた。
白い紙に、黒い文字。にじむ鮮血。
水宮雪音が死んだ。
彼らの子どもも――。
村坂博は江原翼の崩れた表情など見もせず、大股で去っていった。
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