紹介
三年にわたる隠し通してきた結婚生活のなかで、夫がそう口にしたのは、綾部栞の実家が危機に瀕し、彼女自身が身ごもっていた、まさにその時だった。
助けを求める彼女に、夫は目を向けることすらしなかった。失意の果てに、栞はふくらみ始めた腹を隠し、離婚届に署名する。
これで互いに違う道を歩むだけだと思っていた。ところが、隠していた孕み腹はやがて露見してしまう。
復縁を切り出してきた元夫に、綾部栞は怒りを叩きつけた。
「この子に会いたければ、跪いて許しを請いなさい」
そう言えば、さすがに諦めるだろう——。
だが、彼女は読み違えていた。相手の、その異様なまでの図太さを。
やがて、雲市で最も賑わう中心街の大型街頭ビジョンに、ある動画が一日中エンドレスで流れ始める。
それは、ひとりの男が地面にひざまずき、ただひたすら復縁を乞い続ける姿だった。
チャプター 1
彼女は、妊娠していた。
時期から考えれば、おそらく先月だ。二人にとって最後になった、あの一度。そしてその直後、伊沢赤司は離婚を切り出した。
三年間、彼女はずっと、彼との間に子どもが欲しいと願ってきた。なのに、その子が訪れたのは、皮肉にも離婚を目前にした今だった。
綾部栞は、悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか分からなかった。親友から受け取った妊娠検査の報告書に、「妊娠確定」の文字を見つけた瞬間、その表情がかすかに揺れる。
「この子、来るタイミング最悪だよね。あんたも旦那さんも、もう離……」
立花芳南は途中で言葉を呑み込み、小さくため息をついた。
綾部栞は検査報告書をぎゅっと握りしめ、痛々しい笑みを浮かべる。声には苦みが滲んでいた。
「そうね。本当に、最悪」
あまりにも突然だった。不意打ちもいいところだ。
栞はひとつ息を落とし、低い声で言った。
「このこと、しばらくは誰にも言わないで」
立花芳南は「OK」のサインを作り、事情を察したようにうなずく。
二人は高校時代からの同級生だ。医大も一緒で、その後は海外で三年間研修を積み、今では同じ病院の別の科に勤めている。栞の結婚生活の実情を知る、数少ない一人でもあった。
帰ろうとする栞の背に、芳南が思わず声をかける。
「でも、もし産まないつもりなら、早めに決めたほうがいいよ。下半期には昇進の審査、あるでしょ」
「結婚か仕事か、どっちか一つくらいは掴まなきゃ」
その言葉に、栞の足がわずかに止まる。小さくうなずき、彼女はドアを開けて部屋を出ていった。
子どもは産む。けれど、この結婚はもう取り戻せない。
隣の診察室の前まで来たとき、医師の注意する声が耳に入った。
「佐野さん、しばらくはしっかり休んでくださいね。無理は禁物です。少し貧血気味ですから、血を補う食事を心がけてください。でないと赤ちゃんにも栄養が回りにくくなりますし、お産にも差し支えますよ」
「はい。ありがとうございます、太田先生」
そのやわらかく穏やかな声を聞いた瞬間、栞の表情がぴくりと変わった。
聞き覚えがある。
以前、夫の携帯から聞こえてきた声だ。
たしか――夫の初恋の相手。
角を曲がったあとも、栞はどうしても気になって、思わず振り返ってしまう。
小柄で儚げな女の隣に立つのは、冷ややかで気高く、近寄りがたい男。黒のシャツに、皺ひとつない黒のスラックス。禁欲的な雰囲気すら漂わせるその姿は、ひどく目を引いた。
どこにいても、人の視線をさらっていくような端正な顔立ち。
綾部栞は一瞬、息を止める。報告書を握る指先に、さらに力がこもった。
その男は、結婚して三年になる彼女の夫――伊沢赤司だった。
医師が貧血にいい食べ物をいくつか挙げると、華奢で愛らしい顔立ちの女は伊沢赤司の腕にそっと絡みつき、甘えるように言った。
「赤司、私、ほんと物覚えが悪くて……ちゃんと覚えておいてくれる?」
「分かった」
男はわずかにうなずく。いつもは氷のように冷たい深い黒の瞳に、今はたしかに淡いぬくもりが宿っていた。
見たことのない彼の一面だった。
胸の奥を鋭い痛みが掠めたが、栞はすぐにそれを押し殺す。
顔を伏せ、物陰から携帯を取り出して夫に電話をかけた。
一度目。切られた。
二度目。やはり同じ。
もともと彼女は、こうしてしつこくする性格ではない。けれど今日だけは、どうしても引き下がれなかった。三度目をかける。
ようやく繋がった。
「今、忙しい」
電話口の向こうから投げられたのは、それだけだった。栞が何か言う隙すら与えず、通話は一方的に切られる。
綾部栞は携帯を強く握りしめた。息をするたび、胸の奥がじくじくと痛む。
忙しい――そうだろう。
初恋の女を妊婦健診に連れてきて、食べるべきものまで覚えてやっているのだから。
二年前、自分が妊活をしていた頃、彼はこんなふうに根気強く寄り添ってはくれなかった。
栞は深く息を吸い、その場を離れようとした。だが少し離れた先から、あの女のやわらかな声がまた聞こえてくる。
「赤司、会社からのお電話? 私、時間取らせちゃった?」
「いや」
低い声で、ほとんど間を置かずに返す。まるで一秒でも遅れれば、彼女を不安にさせてしまうとでもいうように。
その声音を聞いた瞬間、栞の脳裏に浮かんだのは、自分に向けられていた彼の素っ気なさと、見下ろすような無関心だった。
この女のために、彼は離婚するのだ。
この一か月、彼から説明はひとつもなかった。届いたのは、冷えきった離婚協議書だけ。
栞は唇を引き結び、白衣のポケットに両手を入れたまま、物陰から歩み出る。
もともと背の高い彼女が白衣をまとえば、端正で控えめでありながら、どこか知的で凛とした空気をまとう。
綾部栞はうっすらと笑い、男の瞳に走った一瞬の乱れを見逃さなかった。
「奇遇ね」
噂は本当だったのだ。伊沢赤司の初恋の女が帰国した。だから彼は、こんなにも急いで離婚を進めていた。
たった一か月のあいだに、三度も弁護士を立てて話し合いを求めてきたほどに。
佐野小雪は、目の前の気品ある美しい女医を見つめ、目をかすかに揺らした。
それから親しげに伊沢赤司の腕にしがみつき、栞を見上げる。
「赤司、この方は?」
男は眉を深く寄せ、冷えた視線を綾部栞に落とした。そこにあるのは、ただ無機質な冷たさだけ。
「祖母が可愛がってる人だ」
結婚前、伊沢家の祖母は、栞と赤司が少しでも接する機会を増やそうと、何かと理由をつけて栞を伊沢家に呼んでいた。まるで本当の孫のように扱ってくれていた時期もある。
そんなこと、栞自身もうとっくに忘れかけていた。なのに、赤司は覚えていたらしい。
綾部栞は思わず笑みを深める。唇の端に浮かんだのは、露骨な皮肉だった。
「へえ。佐野さん、私のことをご存じなかったのね」
二重の意味を含ませたまま、栞は伊沢赤司を見上げる。目元には、薄い笑み。
「佐野さん、はじめまして。私は――」
言い終える前に、男が無表情のまま遮った。
「綾部先生、暇があるなら父親の顔でも見に行ったらどうだ。最近、相当参ってるはずだ」
寒々しい夜のような黒い瞳に、かすかな警告が滲んでいた。
栞はぴたりと止まる。喉元まで出かかった言葉は、そのまま飲み込むしかなかった。
「行くぞ」
伊沢赤司は最後に綾部栞を淡々と一瞥し、佐野小雪の手を取って彼女の横を通り過ぎる。
エレベーターに乗り込む間際、佐野小雪がふと振り返った。澄んだ瞳の奥に、意味の読めない感情が浮かんでいる。
伊沢赤司は、栞と結婚してから一度も、公の場で既婚者だと認めたことがない。
雲市で二人の婚姻関係を知る者は、ごくわずかだ。
彼にとっては、栞こそが自分に結婚を強いた女であり、佐野小雪を傷つけ、遠ざけた元凶なのだから。
胸がきりきりと痛む。ポケットの中で、栞の手は妊娠検査の報告書をぐしゃりと握り潰さんばかりだった。
そのとき、携帯が鳴る。
綾部家の執事からだった。零れそうになった涙を、栞は無理やり喉の奥へ押し込む。
「お嬢様、すぐ病院へお越しください」
「旦那様が……薬を大量に飲んで自殺を……。薬物中毒で、今、救命処置中です」
救急室。
駆けつけた綾部栞の目に、真っ先に飛び込んできたのは、救急室の前に背筋を伸ばして立つ綾部玉季の姿だった。気品のある装いに、冷ややかな気配をまとっている。
栞は急いで歩み寄る。
「お姉ちゃん、お父さんは――」
だが問いかけは、玉季の冷たい声に遮られた。
「会社のこと、伊沢赤司には話したの?」
「話し合いはどうなったの」
綾部グループは、いま深刻な資金難に陥っていた。すでに話がまとまっていた案件まで次々と解約を求められている。
もし伊沢赤司が手を貸してくれれば、この苦境をしのぎ、綾部グループは立て直せる。
栞はその問いに、ゆっくりとうつむいた。
「まだ……。私たち、離婚することになったの」
そう口にしながらも、玉季の表情を見ることができない。唇の端をきつく噛む。
綾部玉季は、信じられないものを見るような目で妹を見下ろした。
「……今、何て言ったの?」
綾部栞は唇を強く噛みしめる。
玉季は深く息を吸い込み、抑えきれない苛立ちをそのまま言葉に乗せた。
「栞。会社のことは複雑だから、私もお父さんも、あなたにはあまり話してこなかった」
「でも、私が伊沢赤司に頼ってって言った時点で、どれだけ切羽詰まってるか分かったはずよ」
「お父さんは今も中で生死の境をさまよってるの」
「あなたの自尊心は、お父さんの命より大事なの?」
最新チャプター
#150 第150章 彼女はわざと報復している
最終更新: 9/18/2026#149 第149章 罪悪感
最終更新: 9/18/2026#148 第148章 彼はただの患者にすぎない
最終更新: 9/18/2026#147 第147章 彼女にはお姉さんとお父さまが支えてくれる
最終更新: 9/18/2026#146 第146章 彼女がお前を嫌いだからじゃないか
最終更新: 9/18/2026#145 第145章 離婚後は他人になる
最終更新: 9/18/2026#144 第144章 じゃあ、私のハーレムに入る?
最終更新: 9/18/2026#143 第143章 彼はただの元夫にすぎない
最終更新: 9/18/2026#142 第142章 彼らはキスしているのか?
最終更新: 9/18/2026#141 第141章 彼らはまさか従兄弟だったのか?
最終更新: 9/18/2026
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山本希は口論を避け、このカップルを祝福することを選び、自分の条件を提示した。
「あなたの最も高価な限定版スポーツカーが欲しい。」
「いいよ。」
「郊外の別荘も。」
「わかった。」
「結婚してからの2年間に得た数十億ドルを分け合うこと。」
「?」
妊娠を隠して離婚します
九条雅人は彼女の顎を荒々しく掴み、低く唸った。
絢香の頬は屈辱と興奮で真紅に染まったが、その声にはまだ意地が残っていた。「あなたこそ、私に執着しているだけじゃないの?」
雅人は冷酷に鼻で笑った。
「離婚してからどれほど経った? それでもう俺の『ルール』を忘れたか。お前の身体は、今でも俺をこんなによく覚えているくせに。……ほら、咥えろ」
熱を帯び、恐ろしいほどに猛り狂った彼の太いものが、絢香の顔を容赦なく叩いた。
雅人は冷たく笑う。
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——
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しかし、彼が桜井陽菜の妊婦健診に付き添い、彼女が少しでも不快な思いをしないよう、見たこともないほどの優しさと甘やかし方で接している姿を目撃したとき、絢香はついに悟った。彼は人を愛せないのではない。ただ、自分を愛していなかっただけなのだと。
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「次、誰かが君を傷つけたら、こうするんだ」 渡された銃の重みが、私の心に深く刻まれる。
私は逃げ出したかったはずなのに、いま、彼の甘い視線から離れられずにいる。 救いなどいらない。
ただ、この危険な男の「所有物」になりたい。













