紹介
しかし、本来ヒロインと結ばれるはずの彼が、なぜかストーリーを無視して深夜に誘ってきたり、手作りのお弁当をくれたり、しまいには片膝をついて本気のプロポーズまでしてきて……!?
さらに奇妙なことに、平民ヒロインの春原花音はまるで未来を知っているかのようにビジネスを成功させ、私の頭の中ではシステム警告音が鳴り響く。
そんな中、凛太郎から告げられた衝撃の事実――「俺も、前世の記憶を持って、約束の人を探しに来たんだ」。
システムに操られたこのゲームは、完全に制御不能。シナリオの強制力と宿命の恋がぶつかり合う時、本当のプレイヤーは、一体誰?
チャプター 1
東京、ロイヤルガーデンホテルの豪奢なボールルーム。
今宵は桐生グループが主催する年次祝賀会。天井のシャンデリアが放つ無数の光が、着飾った財界のエリートたちの顔を煌びやかに照らし出している。シャンパングラスの触れ合う軽やかな音に混じり、億単位のビジネスチャンスを探る囁き声が、芳しい香水の香りと共にフロアを漂っていた。
私は、フルートグラスを片手に、その光景をどこか冷めた心地で見渡す。桐生グループの令嬢、桐生沙耶香。こんな場所にはとっくに慣れきっていた。体に吸い付くようなシルクのドレスが描く蠱惑的な曲線は、周囲の男たちの視線を集めるには十分すぎるほどだった。
「沙耶香お嬢様、今夜も一段とお美しいですな」
脂の浮いた顔をほころばせ、取引先の男が見え透いたお世辞を囁きかけてくる。
私は完璧な愛想笑いを唇に浮かべて頷きながらも、その視線は無意識に一人の男の姿を探していた。神崎凛太郎。私の婚約者にして、巨大な神崎グループを率いる次期当主。
こういう華やかな社交場にあって、彼は常に人の輪の中心にいた。彫刻のように整った横顔は、いつだって完璧な微笑みを湛えている。
ようやく人垣の向こうに、その長身を見つけた。
しかし、次の瞬間、私の目に映った光景が、全身の血を凍らせる。
凛太郎が、若い女と親密そうに言葉を交わしている。シンプルな黒のドレスに身を包んだ、いかにも清楚といった顔立ちの娘だ。彼を見上げる瞳には、隠しきれない崇拝の光がきらめいていた。見覚えがある。春原花音。最近、うちの会社に入ったインターン生。平凡な家柄の娘が、なぜこんな場所に……そして、私の婚約者に気安く話しかけているのか。
黒い嫉妬の波が、足元から這い上がってくる。私はほとんど無意識に、彼らの元へと足早に向かっていた。
「凛太郎様」
自分の声に、自分でも驚くほどの棘が滲んでいた。
「平民のインターンと戯れるとは、両家の恥ですわ」
ざわめきが、さざ波のように引いていく。好奇と非難の入り混じった視線が、私たち三人に突き刺さる。けれど、今の私には目の前の婚約者のことしか見えていなかった。
凛太郎がゆっくりと振り返る。その深い瞳に、わずかな戸惑いの色が浮かんだ。
「沙耶香、誤解だ」
「誤解ですって?」
私は冷たく笑った。
「この目で見たものが偽りだとでもおっしゃるの? 神崎家の跡取りとして、もう少しご自身の立場を弁えていただきたいものですわ」
春原花音という娘が、みるみるうちに顔を青ざめさせ、か細い声で口を挟んだ。
「桐生お嬢様、私はただ……」
「今、お前が口を出す場面かしら?」
私は彼女の言葉を、氷のような声で鋭く遮った。
「たかがインターンの分際で、馴れ馴れしく口を開かないでくださる?」
ボールルームは水を打ったように静まり返り、誰もがこの痴話喧嘩の結末を固唾を飲んで見守っている。
その時だった。こめかみの内側を、鋭い錐で抉られるような激しい痛みが走った。
「あっ……!」
思わず額を押さえる。視界がぐにゃりと歪み、シャンデリアの光が乱反射して目に突き刺さった。
そして、信じがたい光景が目の前に現れる。
視界の端で、ありえない青い光が明滅している。まるで、モニターの電源ランプのようだ。続いて、見慣れたインターフェースが私の視界いっぱいに広がった。それは、ある乙女ゲームのオープニングムービーだった。
画面の中では、華やかなドレスをまとった少女が、一人の男性に向かって激しく詰め寄っている。その少女の顔は……なんと、私と瓜二つ。
いや、瓜二つなどという生易しいものではない。あれは、紛れもなく私自身だ。
『ありえない……』
心の中で、か細い悲鳴が上がる。
直後、感情の欠落した無機質な音声が、脳内に直接響き渡った。
『ようこそ、『財閥の跡継ぎたちへ』。あなたは悪役令嬢、桐生沙耶香です』
悪役令嬢、桐生沙耶香。
その言葉をトリガーに、膨大な記憶の濁流が、私の意識を容赦なく飲み込んでいった。
前世の私は、ごく普通の会社員だった。最大の趣味は『財閥の跡継ぎたちへ』という乙女ゲームをプレイすること。そのゲームの中で、桐生沙耶香は典型的な悪役令嬢だった。傲慢で嫉妬深く、攻略対象である神崎凛太郎の心を得られないがために闇に堕ちる。最終的にはチンピラを雇ってヒロインの春原花音を襲わせた結果、全ての人に見捨てられ、絶望の淵で自ら命を絶つ……。
そして今、私はその破滅の筋書きをなぞるためだけに存在する、悪役令嬢に転生してしまったのだ。
「そん……な……」
周囲の音が遠のいていく。足から力が抜け、立っているのもやっとだった。凛太郎が素早く私の腕を取り、その声に焦りを滲ませる。
「沙耶香、どうしたんだ? ひどい顔色だぞ」
彼の完璧な顔を見上げ、私の心は底なしの絶望に満たされた。この男は、ゲームの中では常に物腰が柔らかく、私という婚約者を含め、誰に対しても紳士的な距離を保っていた。彼の心にあるのはヒロインの春原花音ただ一人。私は、ヒロインの可憐さを引き立てるための、ただの舞台装置でしかなかった。
「わ、私……少し、お化粧室に……」
かろうじてそれだけを言い残すと、私はよろめきながらその場を離れた。
パウダールームには幸い誰もいなかった。震える手で蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗うと、ようやく意識が少しだけはっきりとした。
鏡の中の女は、人形のように精緻な顔立ちと、生まれ持った気品を湛えている。まさしく、ゲームの中でプレイヤーを散々苛立たせた、あの悪役令嬢そのものだ。鏡面にそっと手を伸ばすと、鏡の中の人物も同じ動きで応えた。
これが、現実。私は本当にゲームの世界に転生し、悲惨な末路を辿る運命の悪役令嬢になってしまったのだ。
「桐生沙耶香……」
私は鏡の中の自分に囁きかけた。
「手に入らない愛のために、全てを壊した愚かな女……」
ドアの向こうから、招待客たちのひそひそ話が聞こえてくる。
「さっきの桐生のお嬢様、どうなさったのかしら。気分でも悪くされたのね」
「お疲れなのかもしれませんわ。最近、桐生グループは大きなプロジェクトを抱えていらっしゃるし」
「それにしても神崎様は本当にお優しいのね。婚約者のことをあんなに心配なさって」
その言葉が、鉛のように私の心を沈ませる。ゲームのシナリオ通りなら、凛太郎の私への気遣いは義務感からくるもので、そこに愛情のかけらもない。彼が本当に心惹かれているのは、善良で純粋な庶民の娘、春原花音なのだ。
そして私、桐生沙耶香は、いずれ嫉妬と未練から取り返しのつかない過ちを犯し、誰からも見放された末に自ら命を絶つ。
「嫌……!」
私は洗面台の縁を掴む手に、爪が食い込むほど力を込めた。
「絶対に、同じ轍は踏まない……!」
筋書きを知っているのなら、運命を変えることだってできるはずだ。まずすべきことは、破滅フラグを回避すること。
凛太郎に執着し続けるのも、嫉妬心から花音を傷つけるのも、そして自分自身を破滅に追い込むような真似も、今日限りでやめなければ。
深く息を吸い込み、乱れた髪を指で整える。私は扉を開け、再び喧騒の中へと戻った。
ボールルームには、まだ優雅なワルツが流れている。まるで先ほどの騒ぎなど最初からなかったかのように。私は周囲を見渡し、すぐに凛太郎の姿を見つけた。彼はフランス窓の前に一人立ち、私が戻ってくるのを待っていたようだった。
私は決意を胸に、真っ直ぐ彼の方へ歩いていく。
「顔色が悪い。先に帰って休んだらどうだ?」
凛太郎は優しい声で言った。その瞳には、純粋な気遣いの色が浮かんでいる。
ゲームの中では、この気遣いが数多のプレイヤーをときめかせた。だが、今の私にはわかる。これは婚約者としての最低限の責任感であって、特別な感情の表れではない。
「先ほどは、わたくしが取り乱しましたわ」
私は完璧な令嬢の仮面を貼り付け、意識して声のトーンを冷たくした。
「少し、考えが及ばなかったようですの」
凛太郎は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。彼の知る桐生沙耶香なら、さらに騒ぎ立てこそすれ、自ら非を認めるなどあり得ないからだろう。
「沙耶香……」
「今夜の祝賀会は成功ですわね」
私は彼の言葉を遮った。
「わたくしたちも、取るに足らないことではなく、本来の仕事に集中すべきですわ」
そう言うと、私は淑女の作法に則って完璧に一礼し、踵を返した。背中に凛太郎の訝しむような視線を感じたが、決して振り返りはしなかった。
人混みの中に、春原花音の姿が見えた。彼女はフロアの隅に立ち、何か物思うように、じっと私を見つめている。私たちの視線が絡み合った瞬間、彼女の口角が微かに持ち上がり、意味深な笑みを浮かべた。
そして、呟く。
「面白い……」
その声は、私にしか聞こえないほど小さかった。
「桐生のお嬢様が、自ら引くなんて」
背筋に氷の刃を滑らされたような、鋭い悪寒が走った。その言葉は……まるで、この世界の筋書きを知っている者の——。
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