もう、あなたの愛はいらない

もう、あなたの愛はいらない

86拓海 · 連載中 · 1.1m 文字

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紹介

三年間、氷のような彼を振り向かせようと必死だった。
けれど突きつけられたのは、末期ガンの診断書と、彼の初恋相手が帰国したという知らせ。

「これで、彼は幸せになれる」

震える手で離婚届にサインをし、私は彼のために整えた美しい家を去った。
私の命が尽きる前に、彼の前から消えることが最後の愛だと思ったから。

それなのに。
私が去った後、彼は仮面を脱ぎ捨て、半狂乱になって私を探しているらしい。

「俺が愛した女は、生涯君一人だ!」

ごめんなさい、あなた。その言葉を聞くには、もう時間が足りないの。

チャプター 1

九条時夜がその身を沈めた瞬間、秋月雫は苦痛に顔を歪め、思わず声を漏らした。

 男の褐色の瞳に、嘲笑の色が浮かぶ。

「いつからそんなに弱くなったんだ?」

 秋月雫の胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 彼に伝えたかった。今回はただ甘えているわけではないのだと。本当に痛いのだと。

 今朝届いたばかりの検査結果が、引き出しの中に眠っている。

 乳がん。それも、末期だった。

「九条時夜、私、もうすぐ死ぬの」

 秋月雫は九条時夜の腕を掴み、その彫刻のように美しい顔をじっと見つめた。そこにわずかでも、自分を憐れむ感情を探そうとして。

 だが、彼はただ気のない様子で口角を上げただけだった。

「なんだ? 俺が白川ゆらの誕生日を祝ったからって、そうやって騒ぎ立てるつもりか?」

 騒ぐ?

 秋月雫の心は、音を立てて冷え切っていった。

 誰かが言った言葉は正しかったようだ。愛していない男の目には、何をしたところで全てが間違いに映るのだと。

 彼女は静かに瞳を閉じ、唇に冷ややかな笑みを浮かべた。

「他の女の誕生日を祝うために、自分の妻の検診すら放っておくなんて。私が騒ぐのは当然でしょう?」

 その言葉を、秋月雫は毅然と言い放った。

 実のところ、彼女が九条時夜の正妻としての権利を主張することは滅多になかった。九条時夜がこの結婚を恥辱と考えており、触れられたくないと思っていることを知っていたからだ。

 かつての秋月雫は彼を愛し、耐え忍んできた。

 けれど今、彼女は死に直面している。

 死にゆく人間が、自分の意志で生きてはいけない道理などないはずだ。

 先ほどまで情欲に溺れていた男は即座に身を引き、全身から冷酷で殺伐としたオーラを放ち始めた。

「秋月雫、一線を越えたな」

 その言葉を残し、九条時夜は振り返りもせずに部屋を出て行った。

 秋月雫は上体を起こした途端、激しい吐き気に襲われた。ふらつく足取りでバスルームへ駆け込み、胃の中身をすべて吐き出すかのように嘔吐した。

 鏡に映る、やつれて人相の変わった自分の顔を見つめながら、秋月雫は自分に言い聞かせる。もういい、終わりにしよう。自分を解放し、彼も解放してあげるのだ。

 秋月雫は夜通し弁護士と連絡を取り、離婚協議書を作成した。

 家も、車も、財産もいらない。ただ一刻も早く、九条時夜との婚姻関係を解消したかった。

 その薄い紙切れを手にした時、秋月雫は不思議なほどの解放感を覚えた。

 いつの間にか、かつて渇望し、歓喜したはずのこの結婚は、重荷に変わっていたのだ。

 離婚協議書を携えて九条グループの本社を訪れた秋月雫だったが、九条時夜の秘書である加賀和成によって社長室の前で足止めを食らった。

「秋月さん、私の記憶が確かならば、法務部はここではありませんが」

 九条時夜は社内の誰にも二人の婚姻関係を明かしていない。世間の目には、九条グループの社長は独身であり、噂の恋人は海外留学から帰国したばかりの薬学博士、白川ゆらということになっている。

 そのため、加賀和成も秋月雫に対して冷淡だった。彼は彼女を、玉の輿を狙うただの一法務部員としか見ていないのだ。

 秋月雫にはもう、他人と言い争う気力など残っていなかった。彼女は離婚協議書の入ったファイルを差し出し、無表情に告げた。

「お手数ですが、九条社長にお渡しください」

 それだけ言い残し、秋月雫は踵を返した。

 加賀和成は眉をひそめる。

 いつもの彼なら、秋月雫の頼みなど聞き入れなかっただろう。

 だが、今日の秋月雫は顔色が蒼白で、足取りもおぼつかない。あまりにも弱々しく見えた。

 彼はしばし逡巡した後、結局、社長室のドアをノックすることを選んだ。

 中から聞こえた九条時夜の声には、苛立ちと冷たさが混じっていた。

「入れ」

 加賀和成はドアを開け、恐る恐る口を開く。

「社長、秋月さんからお渡しするようにと、こちらの書類を」

 九条時夜はそのファイルに一瞥をくれただけで、開いてみようともしなかった。

「彼女が寄越したものだ。処分の仕方はわかっているだろう」

 加賀和成は音もなく溜息をついた。

 これが、彼が秋月雫を軽んじる理由の一つでもあった。

 能力はあるはずなのに、すでに心に決めた人がいる九条社長を追いかけ回し、結果として相手にされず、見ているこちらが情けなくなるほどだ。

 ファイルをキャビネットの肥やしにした後、加賀和成が退室しようとすると、九条時夜が呼び止めた。

「待て。秋月雫にやらせる仕事がある。彼女自身に担当させろ」

 *

「なんですって?」

 秋月雫は自分の耳を疑った。

 加賀和成は淡々と繰り返す。

「薬学研究院の白川ゆら博士が、最近名誉毀損の訴訟トラブルに巻き込まれています。九条社長はあなたにこの件を担当し、白川さんの勝訴を勝ち取るよう命じられました」

 この名誉毀損事件については、法務部全体が噂していた。

 若くして成功した美人薬学博士として、白川ゆらは帰国早々アンチに目をつけられたのだ。

 ある匿名アカウントが、白川ゆらは愛人であり、九条時夜の家庭を壊したと触れ回っていた。

 そんな根拠のない話など、当初は誰も気に留めていなかった。

 ところが、その匿名アカウントは意外にも手腕があり、九条家の家族食事会の写真を晒したのだ。

 写真の人物にはすべてモザイクがかけられていたが、鋭いネットユーザーたちは、九条時夜の隣に座っている女性が白川ゆらではないことを見抜いた。

 一石が投じられ、波紋は瞬く間に広がった。『#白川ゆら 愛人』というハッシュタグはすぐにトレンドの上位に躍り出た。

 白川ゆらも黙ってはおらず、逆にその匿名アカウントを名誉毀損で訴えたのだ。

 法務部の誰もが、九条社長はいつ白川ゆらのために動くのかと噂していたが、まさかその案件が秋月雫の元へ回ってくるとは。

 秋月雫は怒りで全身を震わせた。

 白川ゆらが愛人かどうかなど、本妻である彼女以上に知っている人間はいない!

 眠れぬ夜に送られてきた数々の扇情的な写真、甘い吐息の混じったボイスメッセージ、そのすべてがあの高潔な才女、白川ゆらの手によるものだ!

 彼女がなぜ乳がんになったのか、白川ゆら以上に知っている人間はいないだろう。

 それなのに、九条時夜はこの本妻に、愛人の名誉毀損裁判を戦えと言うのか?

 彼は一体、秋月雫を一人の人間として見ているのだろうか?

「秋月さん? 聞いていますか?」

 秋月雫は我に返り、迷うことなく拒絶した。

「この案件はお断りします」

 彼女の反応に、加賀和成は驚かなかった。

 彼からすれば、九条社長のこの采配は、秋月雫に自分の立場をわきまえさせるための遠回しな警告に過ぎない。そうでなければ、法務部にはもっと優秀な人材がいるのに、なぜわざわざ秋月雫を指名するだろうか。

「秋月さん、お忘れなく。あなたはまだ九条グループの社員です。上からの業務命令に、ノーと言う権利はありませんよ」

 秋月雫は悲痛な笑みを浮かべ、首から下げていた社員証を外すと、机の上に放り投げた。

「なら、辞めます」

 彼女は私物を片付けることもなく、身一つで九条グループを後にした。

「ピンポン!」

 スマートフォンのリマインダーが鳴る。表示されたのは日付だけで、他には何のメッセージもない。

 だが、秋月雫の顔色は一瞬で変わった。

 彼女は急いで道端へ走り、タクシーを止めると行き先を告げた。

「城南拘置所まで」

 その一部始終を、17階から見下ろしていた九条時夜の美しい顔が、一気に陰鬱なものへと変わった。

「九条社長、秋月さんが……」

 加賀和成が恐る恐る入室し、震える声で報告しようとしたが、九条時夜がそれを遮った。

「彼女を連れ戻せ。さもなくば、青空養護施設を更地にする」

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