紹介
「雲月さん、最期のときだけでも、あなたのそばにいさせて……」
そうして林田知音は、夫が別の女のために台所に立ち、息子がその女に唆されて自分を遠ざけていく様を、ただ耐えながら見つめてきた。だが、ついにあの雨の夜、彼女はすべての我慢を引き裂いた。
一流の心臓外科医・日野成謙が彼女の行く手を阻む障害を取り払い、彼女が天才画家として眩いばかりの復活を遂げたその時——野呂雨芽の「不治の病」は、あっさりと完治した。そして目黒雲月の世界は、音を立てて崩れ去る。
「知音……俺が愛していたのは、お前だったんだ!」
林田知音は膨らみ始めた腹をそっと撫で、目の前の男に微笑みかける。
「悪いけど、この子の父親は——あなたじゃないの」
チャプター 1
「本日スクープ。川市の新進実業家・目黒雲月が、人気ダンサーの野呂雨芽と手をつないでショッピングする姿を激写――。近年、若き起業家・目黒雲月の指揮のもと目黒グループは急成長を遂げ、彼の私生活も世間の大きな関心事となっている。関係者の話では、野呂雨芽と目黒雲月は幼なじ――」
ぷつり。
テレビの音が唐突に切れ、代わりに家政婦の大島さんの小さなぼやきが落ちた。
「旦那様も、いったい何をお考えなんでしょうね。幼なじみって……奥様がいらっしゃるのに……」
「……っ」
キッチンから、息をのむ音が聞こえた。林田知音は反射的に蛇口をひねり、冷たい水で赤くなった手を洗い流す。気づいた大島さんが慌てて駆け寄った。
「奥様! まあ……なんてこと……! だから申し上げたのに。野呂嬢のお食事は私が作りますって。味なんて、違いが分かるわけ――」
「少し冷やせば大丈夫です」
知音は淡々と言い、濡れた手をかばいながら続けた。
「大島さん、全部詰めておいてください。執事に頼んで、野呂嬢のところへ届けてもらいます」
心配そうに知音の手を見つめ、大島さんが唇を尖らせる。
「奥様のお手は、細くて白くて……本当に、芸術家の手ですのに。台所になんて立つべきじゃございません。あの野呂嬢は、旦那様と小さい頃から一緒だからって――」
「雲月は、彼女を身内みたいに思ってるんです」
知音は言い聞かせるように言葉を選んだ。
「病状が良くなったり悪くなったりで……あの子の望むようにしてあげないと、って。難しい病気だって言われてるけど、気持ちが落ち着いていれば、もしかしたら奇跡が――」
「気持ちが落ち着く方法が、人様の旦那様を独り占めすることだなんて」
「大島さん!」
声に鋭さが混じり、大島さんがはっと黙る。知音は無意味な愚痴が嫌いだった。他人に、雲月とのことへ踏み込まれるのも。けれど、大島さんが自分のために怒ってくれているのも分かっている。
「……余命の宣告を受けた人が、最後の時間を、好きな人と過ごしたいと思うのは当然です。雲月も、その願いを叶えてあげたいだけ。……形だけのことです」
大島さんは唇を結び、何も言わずに作業へ戻った。蛇口から流れる冷水だけが、じんじんとした熱と痛みを鈍らせていく。
……
林田知音は一人、食卓で質素な野菜料理を口に運んでいた。目黒雲月が家で夕食を取らない日々には慣れてしまった。けれど、慣れないものがある。
息子の目黒らいが、家にいないこと。
『ママ、雨芽お姉さんが、らいに会いたいって言ってたよ。新しいおもちゃも買ってくれた! 雨芽お姉さんのところ行ってくるね、すぐ帰る!』
「……うん」
「うん」と答える以外に、何が言えただろう。
考えなくても分かる。電話の向こう、らいちゃんのそばには目黒雲月がいる。
胸の奥に、どろりとしたものが溜まる。それ以上に、怖いほどの空白が広がっていく。雲月が雨芽に向ける感情は、本当に幼なじみとしての無垢な情だけなのか。それとも――まだ消えていないのか。五年間、自分が見ないふりをしてきただけで。
もしかして、不倫相手は――自分のほうだったのでは。
そのとき、スマホが震えた。画面に浮かぶ、久しぶりの名前。
木下実初。
「先輩?」
『まだ先輩って呼べるなら、知音、私のことブロックしてないってことね?』
笑い交じりの声に、知音は額を押さえて返す。
「まさか。私がそんなこと、できるわけないじゃないですか。……それで先輩、どうして急に?」
『今日のニュース、見てないの?』
「え? あ、えっと……あれは、違うんです。雲月には雲月の――」
『違うって。私、木下実初のニュース』
「……え?」
『毎日毎日、目黒雲月の周りでぐるぐるしてないで、たまには他人のことも気にしなさいよ。自分で見て。それから考えて――主婦、やめる? ステージに戻る? 戻る気があるなら、黙って私のところに来なさい』
ぶつりと通話が切れ、「ツーツー……」という音だけが残った。
ステージに……戻る?
知音はぼんやりしたまま、社交サイトを開く。そこには、木下実初が帰国し、音楽文化会社を立ち上げたという記事が踊っていた。胸の奥がざわつく。熱が上がる。
けれど、その熱はすぐに鎮まった。
知音は自嘲を含ませた短いメッセージを送り、復帰の誘いを丁寧に断った。
すぐに返事が来る。
――尊重する。
先輩のことは分かる。この短い言葉の裏に、どれだけの落胆が詰まっているか。
でも、どうしろというのだろう。
五年前、思いがけず妊娠したときの雲月の言葉が、今も耳に残っている。
「結婚してやる。でもな、俺は自分の妻に派手なことはしてほしくない。林田知音、欲張るな。ピアノと家庭――選べるのは、どっちか一つだ」
たとえ当時の条件を持ち出さなくても、知音は自分の手を見る。指先の薄いタコが、静かに告げていた。
これは、ピアニストの手ではない。主婦の手だ、と。
夜九時を過ぎて、目黒雲月が帰宅した。知音が寝間着のまま廊下へ出ると、雲月は眠り込んだ目黒らいを抱え、子ども部屋へ運んでいくところだった。
「起こして、歯磨きとか……してから寝かせたほうが」
「雨芽のところで済ませた」
雲月はそう言って、子どもの布団を整える。
胸の奥に石が沈む。子ども部屋の扉が閉まり、雲月はネクタイを緩めながら主寝室のほうへ向かった。知音は意を決して後を追う。
「どうした」
雲月はひどい潔癖で、眠りも浅い。結婚して五年、二人は別々の部屋で寝ていた。知音が主寝室へ入るのは、掃除や片づけのときだけだ。
「話があるんです」
「……」
雲月は肩をすくめ、淡々と上着を脱ぐ。知音は扉を閉め、その上着を受け取ってハンガーに掛けた。
「このところ、らいちゃんを連れて、いつもあの人の家に行ってますよね。子どもに良くないと思います」
雲月のボタンを外す手が、一瞬止まった。
「何が良くない。らいちゃんは雨芽が好きだ。生まれてから今まで、雨芽は行事のたびにプレゼントをくれた。お前が産後にしんどかった時期だって、雨芽が毎日、らいちゃんの面倒を見てくれた。今、雨芽が病気なんだ。らいちゃんが見舞いに行くのは当然だろう」
あまりにも当然という口ぶりに、知音の指先がきゅっと握り込まれる。
「らいちゃんはまだ四歳です。あの子の目には……パパと『雨芽お姉さん』のほうが、ママより仲がいいように映ってる。それが普通ですか?」
「結局、何が言いたい」
雲月の声に苛立ちが混じる。
「雨芽さんの病気が治らない限り、ずっと、そうやって甘やかし続けるつもりですか」
弱い言い方になってしまった、と知音自身が思う。けれど、その一言が雲月の神経に触れた。
「甘やかして何が悪い?! あいつはもう、長くないんだぞ! それなのに、ここで嫌味みたいなことを――!」
「……私が、嫌味?」
知音の顔が、青白さから一気に赤へ変わる。
「あなたは私の夫です。毎日、別の女の人のところに行って……私は、聞いちゃいけないんですか? 間違ってますか? 願いを叶えるって言うけど、雲月……それは本当に、あの人の願い? それとも、あなたの願い?」
こんなふうに食い下がる知音を、雲月はほとんど見たことがなかった。いつも穏やかで、淡々として、争わず、奪わず。その印象と、どこか違う。
五年間、二人は礼儀正しく夫婦を続けてきた。知音が良き妻で、良き母であることも、雲月は見ていた。ベランダで静かに本を読む彼女に日が差し、時間がゆっくり流れているように見える――あの落ち着きが、いつしか雲月にとって……
「知音。俺は疲れてる」
雲月はため息を落とし、言葉を切った。
「らいちゃんを雨芽のところに行かせたくないなら、これからは減らす。雨芽は病状が不安定だ。刺激を与えたくない。……少しは大人になってくれ。な?」
雲月が肩に手を置き、低く宥める。
いつもなら、知音は飲み込んだだろう。喉の奥が裂けそうな苦しさごと、黙ってしまっただろう。
でも今日は、どうしても、誤魔化される気になれなかった。
涙の光を含んだ目を上げ、知音は雲月を見つめる。
「病気なら、お医者さんに行けばいい。あなたを呼び続けるのなら、それは体じゃない。頭が――おかしいんです!」
「……っ」
ぱんっ。
乾いた音が部屋に響いた。
頬が、かっと熱い。林田知音はその場に立ち尽くし、燃えるような痛みだけが遅れて広がっていった。
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そのベッドの上には、無惨に引き裂かれたレースの下着がわざとらしく残されていたのだ。
それは明らかに、夫の愛人からの宣戦布告。
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命の期限を突きつけられた日に、愛まで失った私。
絶望の淵で、私はある決断を下す。
私が囲っている億万長者
彼は息を呑むほど美しく、落ちぶれていた。夫の裏切りがもたらした傷が完全に癒えるまで、彼をそばに置いておくつもりだった。
お金で彼の付き添いを買い、すべてのルールを私が決め、すべてを完全に掌握しているつもりだった。
けれど、私の隣で横たわるこの男の正体は、彼が語ったものとはまるで違っていた。
魅惑的な笑顔と抗いがたい容姿の下に隠されていたのは、仇敵から身を隠す億万長者の素顔だった。
今や彼は、私の生活に、私のベッドに、そして私の心に――完全に絡みついている。
身を引くことは、彼のそばにいることよりも、もっと危険かもしれない。
社長、突然の三つ子ができました!
あの忌まわしい夜から逃げるように去った私だったが、ほどなくして三つ子を妊娠していることに気付く。
五年後、医療界の新星として戻ってきた私は、継母、継姉、実の父へ全ての仕返しを誓う。
その時、彼が現れた。三人の小さな自分そっくりの顔をじっと見つめながら、優しく「パパ」と呼ぶよう子供たちを誘う彼。
ふとシャツのボタンを外し、悪戯っぽく笑って言った――
「どうだい、あの夜の熱をもう一度味わってみないか?」
社長の可愛い若妻
愛に絶望した私は、お互いの利益のための「契約結婚」に同意する。てっきり、悪名高いプレイボーイの蒼井翼と結婚するものだと思っていた。ところが、書類にサインする瞬間、婚姻届に書かれていた名前は――蒼井沢言。誰もがその名を聞くだけで震え上がり、「地獄の帝王」と恐れられる冷酷な巨大財閥のトップだった。
彼は私に数々の価値連根のジュエリーを贈り、私の敵をすべて排除し、世のあらゆる嵐から守ってくれた。けれど、「愛している」という言葉だけは、一度も口にしなかった。
しかしある夜、彼は私を壁に押し付け、熱い吐息を肌に吹きかけながら、低く掠れた声で囁いた。
「音羽、俺をいつまで待たせるつもりだ?」
――この結婚は、決して偶然などではなかった。最初からすべて、彼が仕組んだ「執念の計画」だったのだ。













