私は自分の遺灰を彼の結婚式に送った

私は自分の遺灰を彼の結婚式に送った

渡り雨 · 完結 · 19.0k 文字

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紹介

三ヶ月前、私は誘拐された。婚約者である濱野和久に助け出された時、私が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。服は乱れ、体は痣だらけ。何が起きたのか、私には全く記憶がなかった。

一週間前、妊娠が判明した。震える私を抱きしめ、彼は声を詰まらせながら言った。「君のせいじゃない。僕が君を守れなかったせいだ。たとえお腹の子が僕の子じゃなくても、僕が育てる。完璧な結婚式を挙げよう」と。

けれど、私は罪悪感から鬱を患ってしまった。

毎晩、悪夢にうなされて眠れず、何度も自ら命を絶とうとしては、その度に彼に助けられた。

三度目の自殺に失敗した後。私は彼に謝ろうと、淹れたてのお茶を手に書斎へ向かった。中から、彼と友人の声が聞こえてくる。

「お前、気は確かか?古見優希はお前の婚約者なんだぞ!」友人の焦燥しきった、信じがたいといった声。「リリを政略結婚の相手にするために、本当に人を雇って彼女を誘拐したのか?おまけに、誰かに汚されたとまで思い込ませて……。彼女がどれほどの心の傷を負うか、分かっているのか?」

濱野和久の声は、あまりに平然としていて、どこか当然だと言わんばかりだった。「リリが病気になったのは、僕のせいなんだ。彼女の唯一の望みは、僕と一度でいいから結婚式を挙げること。僕が優希を突き放さなければ、彼女の父親が婚約を反故にして、リリを結婚相手に差し出すはずがないだろう?」

手のひらから、ティーカップが滑り落ちた。ただ、絶望の涙が流れる。

あの夜も、あの悪夢も、血が滲むまで何度も手を洗い続けたあの時間も、すべては彼が周到に仕組んだ嘘だったなんて。

たった一人の、別の女のために。

私は、父の番号をダイヤルした。

「お父さん。私、政略結婚に同意するわ」

チャプター 1

 電話の向こうで、二秒ほどの沈黙が落ちた。

 父は短く「わかった」とだけ告げ、通話を切った。

 書斎の中では、まだ会話が続いていた。

「手は出してないだと?」友人が声を荒らげる。

「じゃあ子供はどうなる? 彼女は妊娠してるんだぞ! 誘拐犯はお前が雇ったとはいえ、手違いがあったのを知らないわけじゃないだろう? もしものことが……」

「もしもなどない」濱野和久は冷徹にそれを遮った。

「奴らには警告しておいたんだ。脅すのはいいが、彼女には指一本触れるなとな」

 彼は一拍置く。

「子供については……彼女に罪悪感を抱かせるのにちょうどいい。姉のくせに、いつもリリを見下して陰口を叩いていたんだ。ちょっとしたお仕置き代わりさ」

 爪が掌に食い込む。

 彼にとっての『お仕置き』とは、私が浴槽で手首を切り、睡眠薬を瓶ごと飲み干し、ベランダの縁に立った、あの瞬間の数々のことだったのか。

「リリとの結婚式が済んだら、あいつを海外の療養施設に送る手筈だ」彼は淡々と続ける。

「向こうで子供を産ませて、精神状態が落ち着いた頃に教えてやるつもりだ。実は俺の子だったとな。そう時間はかからない。その時は、たっぷりと埋め合わせをしてやるよ」

 彼は薄く笑った。

「結局のところ、俺が愛しているのはあいつだけなんだから」

 私が深い愛情だと信じていたものは、彼が自分に酔うための脚本に過ぎなかった。そして私は、その舞台の上で意のままに操られる小道具でしかなかったのだ。

「だが、彼女はもう三回も自殺未遂をしてるんだぞ!」友人の声には戦慄が滲んでいる。

「毎回誰かが助けたとはいえ、もし一度でも手遅れになっていたら……」

「あれは演技だ」濱野和久は冷たく言い放つ。

「俺の気を引きたいだけさ。でなきゃ、毎回あんな都合よく発見されて助かるはずがないだろう?」

 私は口元を押さえ、必死に声を殺した。

 いつだって、私は本気で死のうとしていた。どの選択も、絶望の淵で下した決断だったのに。

 それを彼は、演技だと言うのか。

 友人は長い沈黙の後、深く溜息を吐いた。

「お前は狂ってる。たかが恩義のために、そこまでするか。彼女が真実を知って、永遠にお前の元を去るのが怖くないのか? あの性格だ、きっとそうするぞ」

「知られるはずがない」濱野和久は自信たっぷりに言った。

「あいつは俺を愛しているんだ。俺が少し機嫌を取ってやれば、彼女の『過ち』を許した俺の度量の広さに感謝するだけさ」

 私は目を閉じ、踵を返した。

 彼はリリの結婚式という願いのためだけに、私の全てを平気で踏みにじった。

 なのに、たった一言の真実さえ私には告げてくれない。

 来る日も来る日も、彼の傍にいることが救いであり、彼の優しさこそが愛だと信じていた。

 それも全て、彼が自作自演した茶番劇だったのだ。

 私はただ、その劇中で弄ばれるだけの道具。

 体も、心も壊れた。

 自分自身すら嫌悪する廃人と化し、犯されたという幻覚に怯える日々。

 腹の中には、恥辱の証だと思い込んでいた命を宿して。

 その全てが、単にリリへ政略結婚の枠を譲るためだったなんて。

 あの『病弱で可哀想な妹』のために、彼は躊躇なく私を地獄へ突き落とした。悪夢にうなされ、罪悪感で自傷し、絶望の中で何度も死を乞う私を、彼はただ眺めていたのだ。

 全身の震えが止まらない。胸の奥から激しい痛みが突き上げてくる。

 私は胸を押さえ、その場にうずくまった。涙が止めどなく溢れる。

 もう感覚なんて麻痺してしまったと思っていた。あれだけの事を経験して、もう涙なんて枯れ果てたと思っていた。

 けれど今、心とはこれほどまでに痛むものなのだと、思い知らされていた。

 しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。

 濱野和久が部屋に飛び込んでくる。眉をきつく寄せている。

「どうしたんだ?」

 彼はしゃがみ込み、私を支えようとする。私は顔を背けた。触れられたくなかった。

 それでも彼は、腫れ物にでも触るように慎重に私を抱き上げた。

「どうしてまだ寝てないんだ? 顔色が真っ白じゃないか。また悪夢でも見たのか?」彼は私をベッドへと運ぶ。

「大丈夫だ。最高の精神科医を手配したからな。すぐに良くなるよ、約束する」

 額に当てられた彼の手は、慣れ親しんだ温度を持っていた。

 以前なら、この温もりに縋り、彼の胸に顔を埋めて慰めを求めていただろう。

 けれど今はただ、吐き気がするだけだ。

 私は彼の胸に身を預け、震える声で問いかけた。

「和久……本当に、私にこの子を産んでほしいの?」

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私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。

さらに劇的なことに、私の実の親はこの街で頂点に君臨する最高峰の大富豪だった。

そして私の婚約者——すでに顔を合わせているにもかかわらず、その正体を知らなかったあの男こそ、この街の誰もが名前を聞くだけで震え上がる、ビジネス界の冷酷な死神:梅原晴琉だったのだ。

ある日、彼は私の手を執り、ゆっくりと距離を詰めると、耳元で低く囁いた。

「俺のこの鼓動、今なら感じられるか?」

私は至って真面目な顔で彼の胸に手を当て、大真面目にこう返した。

「心拍数は確かに少し高めですが、非常に健康的です。心配ありませんよ」

彼は一瞬呆気にとられ、それからふっと吹き出した。その瞬間の彼の笑顔に、私の心臓もなぜかドクンと跳ねた。それは、自分自身でも説明のつかない初めての衝動だった。

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オークションで数億円の値を叩き出す『伝説の画家』。
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そして――彼らの全財産すら小銭に思えるほどの『真の巨大財閥の後継者』であることを。

今さら元婚約者が土下座で許しを請おうと、本物の娘が嫉妬で狂いそうになろうと、もう遅い。
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「知らないのか?」
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「彼女はクタクタになって、さっき眠ってしまったから」