紹介
夫の長谷川遥斗は優しく、裕福で、何から何まで彼女を労り、常に掌の上の珠のように大切にしてくれていたからだ。
あの日、彼を驚かせようと予定を早めて帰国するまでは。
心持ち開いた寝室のドアの向こうから、女の弱々しい喘ぎ声が聞こえてきた。
「私、あなたの子を妊娠したの。いつ彼女と離婚してくれる?」
その瞬間、彼女の世界は音を立てて崩れ去った。
さらに皮肉なことに、まさに同じ日、彼女自身の妊娠も発覚する。
5年間待ち望んだ我が子がやってきたのは、奇しくも彼女が別れを決意した日だった。
詩織は激しく問い詰めることもなく、きっぱりと結婚指輪を外した。
この偽りの結婚をあっさりと捨て去り、自分のキャリアを再開することを選んだのだ。
もう二度と、飼い慣らされたカゴの鳥にはならない。
かつて諦めたもののすべてを、この手で奪い返してみせる。
やがて長谷川遥斗は、自分が詩織を失ってしまったことに気づく。
彼は何度も彼女の前に現れては、プライドを捨て、顔色をうかがいながら、復縁を乞うようになった。
しかし詩織はただ彼をやり過ごし、前を向いて歩き続ける。
彼が振り返るのは彼の勝手。彼女が振り返らないのは、彼女の意志だ。
チャプター 1
諏訪詩織は海外から予定より一日早く帰国した。
家に着くなり、玄関に置かれた赤いハイヒールが目に飛び込んでくる。
数秒、思考が止まった。
——私のじゃない。
それに、長谷川遥斗は他人を家に上げるのを嫌う人だったはずだ。
詩織はバッグを置き、奥へ進む。寝室のドアがわずかに開いていて、そこから声が漏れていた。
「遥斗……いま、あなたの子を妊娠してるの。いつ詩織に離婚の話をするの?」
甘く、か細い女の声。
ドアノブに伸ばしかけた手が、そのまま止まる。足の裏が床に縫い付けられたみたいに、動けない。
聞き覚えがあった。
林田美月。長谷川遥斗の幼なじみで、ずっと彼のそばにいた遊び相手。
詩織が遥斗と結婚した頃、美月は海外へ行った。
それが今——戻ってきただけじゃない。夫の子まで身ごもっている。
なのに、私は何も知らなかった。
「美月。俺は離婚するつもりはない」
遥斗の声は低く、静かだった。
「離婚しないって……じゃあ、私はどうなるの?」
美月が泣き声を混ぜて訴える。「遥斗、私のほうが詩織より長くあなたを知ってる。あなたが結婚する時だって、泣いて騒いだりしなかった。ひとりで海外へ行ったの。なのに今、妊娠したのに……私のことは考えなくてもいい。でも、この子のことは? 生まれた瞬間から父親がいないなんて……そんなのひどいよ……」
詩織の指先が震え、どうしても止まらない。
頭の中に雷が落ちたみたいに、視界が真っ白になった。
外では理想の夫。完璧で、隙がないと誰もが言う男。
それが、裏では——。
部屋の中が数秒だけ静まる。
次いで、美月の甘い喘ぎと、遥斗の荒い息づかいが重なった。
「遥斗……あなたも本当は私のこと、愛してるでしょ? 言ってたじゃない。詩織とするより、私としたほうが刺激的だって」
挑発するような声。
「……しゃべるな」
掠れた声のあと、女の嬌声が波のように続いた。
ドアノブから指が滑り落ちる。
開ける勇気なんて、どこにもない。耳に刺さる音に耐えきれず、詩織はふらふらと背を向け、リビングへ戻ってソファに崩れ落ちた。
テーブルのガラスに映る顔は、信じられないほど白い。
それを見つめているうちに、視界が滲んだ。
五年前、遥斗と結婚した時、誰もが言った。
「前世で運を使い切ったんじゃない?」と。
長谷川家は上流の中でも指折りの名家。遥斗は一人息子で、名門大学卒。三十で家業を継ぎ、資産は百億単位。遊び歩くような男でもなく、潔癖なくらいスキャンダルがないことで有名だった。
そんな完璧な男が、なぜか詩織だけを選び、猛然と口説いてきた。
結婚式の日、遥斗は皆の前で言った。
「詩織。俺は残りの人生を全部使って、お前を愛する」
あのときの私は、泣きそうなくらい幸せだった。
彼のためにF国留学の話も捨て、家に入り、専業主婦みたいに暮らした。
結婚五年。子どもはできなかった。
遥斗はいつも「もう少し待って」と言った。会社が落ち着いたら、忙しさが減ったら——そう言って。
今になってわかる。
待っていたのは会社じゃない。幼なじみの林田美月を落ち着かせるためだったのだ。
——
詩織は宛てもなく街を歩いた。人波が絶えず、ショーウィンドウは眩しい。
それなのに、どこへ行けばいいのかわからない。
適当なカフェに入り、席に落ち着く。
頼んだのはホットチョコレート。遥斗がよく「詩織にはこれだ」と勝手に注文してくれたもの。
そのとき、スマホが鳴った。
長谷川遥斗。
画面の名前を見ただけで胸が痛む。
呼び出し音が長く続いたあと、ようやく通話を取った。
「詩織、P市には着いたか?」
いつも通り、低くて優しい声。甘やかすみたいな響き。
「着いたよ」
本当はもう帰国しているのに、言えなかった。
「向こう、寒くないか? 今日、冷え込むって予報でさ」
「大丈夫」
「早く休めよ。明日帰ってきたら駅まで迎えに行く」
「……うん」
通話を切る。
運ばれてきたホットチョコレートを一口飲む。
甘い。
甘すぎて、舌が痺れるほど。
遥斗は知らない。
私は本当は甘いものが苦手だ。けれど「これがいい」と言われれば、うなずく癖がついてしまった。
そして——今日より前に、警告はあった。
一週間ほど前、匿名のメッセージが届いたのだ。
「あなたの夫は林田美月とマンションで3時間。昨日の深夜1時に出てきた」
その時の私は、気にも留めなかった。
美月の存在は知っていた。幼なじみで、両家は代々の付き合い。小さい頃から一緒に育った相手。
美月は遥斗より二つ年下で、いつも彼の後ろを追いかけていた。
結婚式では美月はブライズメイドまで務め、乾杯のとき赤い目で言ったのだ。
「遥斗、幸せになってね」
——だから、仲がいいだけだと思っていた。
彼女は恋人もできたと聞いていた。F国人と付き合い、向こうでギャラリーまで開いたと。
連絡が切れていなかったなんて。
ずっと、続いていたなんて。
カップの中身はまだ半分以上残っている。
甘ったるい匂いに胃がひっくり返りそうになり、詩織は口元を押さえて立ち上がった。
その瞬間、視界がふっと暗くなる。
天地が回り、足元が崩れ落ちた。
どさり。
テーブルの角にぶつかり、床にホットチョコレートが散った。
「お客様!? 大丈夫ですか!」
店員が駆け寄る声。
詩織は救急車を、と言おうとした。けれど意識が遠のき、言葉にならないまま闇に沈んだ。
——
目を開けると、白い天井。病院のベッドだった。
「やっと目が覚めましたね!」
若い看護師がカルテをめくる。「カフェで倒れて机の角にぶつけたので、額に少し青あざがあります。でも大したことはありません」
それから、呆れたように続けた。
「まったく……妊娠してるなら、もっと気をつけてください。ひとりでカフェなんて」
詩織の頭の中が、ぶわっと音を立てた。
「……いま、なんて?」
「え? ご存じなかったんですか?」
看護師は眉を寄せる。「妊娠8週ですよ」
雷が落ちた。
詩織は反射的に下腹に手を当てる。そこに——新しい命がいる。
夫の裏切りを知った、その日に。
ずっと待ち望んでいた子が来るなんて。
皮肉すぎて、笑えもしない。
「ご主人は? 連絡して、退院の迎えを頼んでください」
看護師に促され、詩織は喉の奥が詰まった。
遥斗は今、別の女と——。
そう思うだけで息が苦しい。
「……夫はいません。離婚しました」
最新チャプター
#120 第120章 受け取って、詩織からのプレゼント!
最終更新: 9/4/2026#119 第119章 詩織はとっくにあなたたちの不倫を知っていた
最終更新: 9/4/2026#118 第118章 交通事故で海に転落
最終更新: 9/4/2026#117 第117章 諏訪詩織に何かあった!
最終更新: 9/4/2026#116 第116章 旅立ちの段取りを整える
最終更新: 9/4/2026#115 第115章 長谷川遥斗を二度と生きられなくする
最終更新: 9/4/2026#114 第114章 条件を一つ約束してくれ
最終更新: 9/4/2026#113 第113章 詩織、見えたの?
最終更新: 9/4/2026#112 第112章 林田美月、死にたいのか!
最終更新: 9/4/2026#111 第111章 感情の破綻?
最終更新: 9/4/2026
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やがて絶望を知り、私の前に跪いて許しを乞う元夫。
その惨めな姿を見下ろす私を、最高峰の男が背後から抱き寄せ、耳元で低く甘く唸った。
「俺の子供を身ごもっておきながら、一体どこへ行こうというんだ?」
――捨てられた妻の反撃と、逃げられない絶対的な愛が、ここから始まる。
舐めるつもり?なら、思い知らせてあげる
ところが、その兄が乗ってきたのはトラクターだった。
ガタガタと揺れるトラクターがたどり着いた先は、まるで古城のような大邸宅。そこで私は思い知る。本当の家族のもとに引き取られた私は、貧しくなるどころか、前よりずっと裕福になっていたのだ。
……だが、ちょっと待ってほしい。なぜ私には突然、婚約者というものが存在するのか。しかもその相手は、私の大学の教授だという。誰か、説明してくれないだろうか。
全能令嬢の帰還、家族が倒産?
父は冤罪で獄中にあり、母は病に伏せっている。
六人の兄たちも、ある者は身体に障がいを負い、ある者は無気力に沈んでいた。
そんな折、家に潜り込んでいた偽令嬢は状況を見るや否や一家を見捨てて姿を消し、さらに屋敷までも奪い取ろうとしていた。
世間は夏川家を「落ち目の負け犬」と嘲笑い、皆がこぞって踏みにじる。
紅蓮が静かに一声を発すれば、暗部より無数の異能の士たちが姿を現し、形勢は一瞬にして逆転する。
父は無実のまま出所し、母は健康を取り戻し、廃人同然だった長兄は再び己の足で歩き出し、残る五人の兄たちもまた紅蓮の導きによって各々の才覚を花開かせ、やがて各界を牽引する大物へと成り上がっていく。
しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
「夏川紅蓮は地味で野暮ったい田舎者だ」と。
何を隠そう、彼女は無数の隠された顔を持つ存在。
神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
そして、暗部を統べる首領さえも——彼女なのだ。
そんな折、頂点に君臨する名門の若様が、彼女をそっと腕のなかに抱き寄せた。
「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」
紅蓮が流し目をひとつ送る。
「婚約、破棄しなくていいの?」
「しない」
彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。
死に戻り真令嬢の復讐 ~偽りの家族も血の兄も要りません
破滅を経て死に戻った結衣は、人が変わったように冷徹になる。もう二度と、あの愚かな兄たちのために心を痛めたりはしない。
しかし、冷遇し始めた途端、兄たちの態度が一変する。
「いい加減、そんな冷たい態度を取るな」と迫る社長の長男。
「俺の誤解だったんだ……」と苦悩する医師の次男。
「頼む、やり直させてくれ!」とプライドを捨てて乞うトップスターの三男。
「俺の妹はお前だけだ!」と泣きじゃくる不良の四男。
だが、結衣の答えはひとつだけ。
「みんな、失せて」
復讐と無関心を胸に、彼女は一人の男性の手を取った。
「宮本景太。今日からあなただけが、私のたった一人の『お兄ちゃん』よ」
――しかし、彼女の本当の身分が明かされた時、今度は血縁関係のある「実の兄たち」が押しかけてきて――!?
「『唯一の兄』だと……? じゃあ、俺たちはお前の何なんだ!?」
家族の縁を切った日、兄たちはすべてを失った
公平を期すという名目のもと、兄たちは彼女からリソースを根こそぎ奪い、その尊厳を踏みにじってまで、運転手の娘を支えた。
彼女は兄たちのためにすべてを捧げたというのに、家を追い出され、無残に死んだ。
生まれ変わった今、彼女は人助けの精神などかなぐり捨てた。許さない、和解しない。あなたたちはあなたたちで固まっていればいい。私は一人、輝くだけ。
兄たちは皆、彼女がただ意地を張っているだけだと思っていた。三日もすれば泣きついて戻ってくるだろうと高を括っていたのだ。
だが三日経ち、また三日経っても彼女は戻らない。兄たちは次第に焦り始めた。
長兄:「なぜ最近、こんなに体調が悪いんだ?」――彼女がもう滋養強壮剤を届けてくれないからだ。
次兄:「会社のファイアウォールは、なぜこうも問題ばかり起こす?」――彼女がメンテナンスに来なくなったからだ。
三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。
兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」
彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
「車が壁にぶつかってから、ようやくハンドルを切ることを覚えたのね。株が上がってから、ようやく買うことを覚え、罪を犯して判決が下ってから、ようやく悔い改めることを覚えた。残念だけど、私は――許さない!」













