復讐のはずだったのに、敵のあなたに堕ちていく

復讐のはずだったのに、敵のあなたに堕ちていく

ひかり · 連載中 · 270.2k 文字

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紹介

母を「失敗作の科学者」と嘲笑した人たちへ。
私は彼らを、もう“人”とは呼ばないことにした。

母は殺され、父は姿を消した。
残されたのは、凍るような孤独と、静かに燃える復讐心だけ。

標的は、極秘プロジェクト《ブラックアイス》を裏で動かす巨大企業。

復讐のために戻った私が出会ったのは、若きCEO藤堂湊。
自社を蝕むハッカーに追われる彼は、私に救いを求めた。

——これは、運命がくれた侵入の鍵。

彼のそばにいれば、真実に近づける。そう思っていたのに。

潜入の中で明らかになるのは、企業の闇だけではなく、
彼の家族へとつながる、あまりにも残酷な真実だった。

近づいてはいけないはずなのに、
彼の声も、視線も、優しささえも——心を乱していく。

復讐のために戻ってきたはずだった。
なのに私の凍った世界を最初に溶かしたのが、敵である彼だなんて。

この恋は罠か、それとも——救いなのか。

チャプター 1

空港の冷房はやけに効いていて、旅客が途切れず行き交うたび、空気の奥に消毒液の匂いがふわりと混じった。

冬木澪はVIP待合の幅広いアイボリーのソファに沈み込み、細い脚を宙にぶら下げたまま、ゆらり、ゆらりと気だるく揺らしている。足元は洗い込まれて色の抜けたキャンバススニーカー。

口の中でピンクのガムが「パチン」と弾け、すぐ舌に巻き取られる。頬が小さく膨らんだ。

彼女の視線は膝の上の極薄ノートに釘付けだ。覗き見防止フィルムの奥、幽青い光が指先を照らし、十本の指が稲妻みたいにキーボードを走る。速すぎて、残像しか見えない。

光に浮かぶ顔は作り物みたいに整いすぎた童顔。表情はない。

画面の隅に暗号化チャットの小窓がひとつ。文字が目にも留まらぬ速度で跳ねていた。

【ボス、着陸しました?】

【うん】

【ボス、H市は複雑です。くれぐれも安全に……】

【自分の家に帰るだけで何が怖いの】

苛立たしげにエンターを叩く。チャットは瞬時に消え、画面には滝のように流れる複雑なコードだけが残った。

数歩離れたところで、藤堂湊が電話を切ったばかりだった。長距離フライトの疲れが眉間に残り、足止めされた苛立ちがうっすら滲む。片手で眉間を押さえ、もう片方でスマホを握ったまま、秘書から届いたメッセージに目を通す。

【藤堂社長、申し訳ありません。道が少し渋滞していまして】

藤堂湊は言葉もなく息を沈め、画面を消す。

そして無意識に、やや混み合う待合エリアを見渡した。視線が座席の列をなぞり――最後に、ソファに丸まって周囲のビジネスマンたちから浮きまくっている、小柄な影に落ち着く。

大きめのフード付きパーカーが体をほとんど覆い、見えるのは幼すぎる顔と、キーボードの上で舞う両手だけ。あの速さは……遊びの域じゃない。

藤堂湊の深い瞳に、わずかな検分が走る。絵面に妙な違和感があった。

――座ってメールを片付けたい。

周囲を見回すと、空席はその「小さな女の子」の隣しかない。

彼は歩み寄った。濃いグレーのスラックスに包まれた脚は長く、商売の場で鍛えた落ち着いた気配をまとっている。

座面がふっと沈んだ。

冬木澪は、視界の端ですら動かさない。

彼女はいま最後のデータ防壁の前で指を止め、エンターの上に指先を浮かせたまま。

暗号窓がまた一度、ちらりと光った。

【ボス、このデータ硬すぎます! どうすんですか!】

藤堂湊の声が響く。大人の抑制と、礼儀めいた探りが混ざった声。

「失礼」

冬木澪は振り向かない。エンターを、軽く、指で叩く。防壁は一瞬で崩れた。

彼女は一言だけ打つ。

【使えない】

藤堂湊は低く、続けた。

「ノートの充電が切れそうなんだ。充電器が預け荷物に入っててね……よければ、充電器を借りられないか?」

冬木澪がようやく、ゆっくり顔だけ横に向ける。

藤堂湊は背もたれにもたれ、ネクタイを少し緩めていた。喉仏がわずかに覗く。彫りの深い眉骨、硬い顎のライン、目尻には年月の細い刻み。眉はわずかに寄り、その視線には確かに「頼み」の色があった。

冬木澪の澄み切った――無機質にすら見える瞳は、彼の顔に半秒も留まらない。

視線は機械みたいに正確に、彼のノートの筐体にある型番表示を掠め取る。

そして何事もなかったように前へ戻り、自分の画面へ。彼は喋る背景にでもなったかのように。

空気が、二秒ほど固まった。

藤堂湊は眉をさらに寄せる。――この子、聴こえないのか?

次の瞬間。

冬木澪の指が狂ったように踊り出す。目が追えない。覗き見防止フィルムの奥で、複雑なコマンドが生き物のように組み上がり、注入され、実行されていく。

画面は暗転し、深い青のコマンドラインだけが残った。カーソルが狂ったように点滅する。

小指が鮮やかにエンターを落とす。何かを断ち切るみたいに、迷いのない動き。

ほぼ同時に、藤堂湊の膝の上のノートの右下。灰色だったバッテリーアイコンが跳ねた。

緑の稲妻マークが点灯する。

小さな文字が表示される。

【充電中】

藤堂湊は画面を見つめ、瞳孔がきゅっと縮んだ。

顔を上げ、隣の、無害そうな「小さな女の子」を見た。

冬木澪が「パタン」と自分のノートを閉じる。小気味いい音。

動きは大きくないのに、「終わった。余計なことは言わない」という終止符の気配があった。

彼女が体ごと少し向き直る。透き通る瞳がまっすぐ刺さり、ピンクのガムが頬に押しやられて小さく膨らむ。顔だけなら可愛いはずなのに、視線が冷たすぎて空気が凍る。

「さっきから、ずっと見てたのに……」

声は甘い少女のもの。けれど抑揚はなく、冷たいコードを読み上げるみたいに平板だった。

「思いついたナンパが、それ?」

返事も、疑いも、礼を言う暇も与えない。

冬木澪は軽そうに見える黒いリュックをつかみ、片肩に放り上げる。動きは訓練でも受けたみたいに無駄がない。

振り返りもせず出口へ歩き出した。キャンバスの靴音が磨かれた床を刻み、しなやかな猫のように去っていく。

藤堂湊はその場で固まった。喉仏が勝手に上下する。

さっきの視線――すべてを掌握しているような冷淡さが、修羅場を踏んできたはずの彼の胸の奥を、理由もなくぞくりとさせた。

視線をノートへ戻す。緑の充電マークは安定して光っている。

だがいつの間にか、画面の中央に傍若無人な警告ウィンドウが出現していた。真っ黒で、タイトルバーも閉じるボタンもない。

白く発光する大きな文字が、乱暴に突きつけられる。

【次は気をつけて。じゃないと“黒く”なるのは……ワイヤレス充電だけじゃ済まない】

――

空港を出てすぐ、冬木澪は通りの角を曲がり、堂々たるラグジュアリーブランドの店へ入った。

冷気がふわりと押し返し、空気には高級レザーと香水の匂いが重なる。

迷いなく陳列へ向かい、細い指で隅に置かれたデザインの変わった黒いチェーンバッグを指した。

「これ、見せて」

言い終える前に、艶やかな濃いピンクのネイルが塗られた手が、バッグの上に被さった。

「それ、私がもらう!」

甘ったるい声。わざとらしい優越感。

冬木澪が目を上げる。

今季の新作ワンピースに身を包み、メイクも完璧な若い女が、見下すように彼女を測っていた。学生っぽい格好――ここで買えるはずがない、と言わんばかりの軽蔑。

女の名は橋本日奈。藤堂湊の弟・藤堂颯太の恋人で、端役の芸能人。背伸びしたプライドだけは天より高く、藤堂家の兄弟にどこか言葉にできない欲を抱いている。

「先に私が見つけた」

冬木澪の声は平坦で、感情がない。

「見つけたら自分のものって? 聞いたことないんだけど」

橋本日奈は鼻で笑い、カウンターを爪でコンコンと叩く。

「店長! 包んで! 私が買う!」

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