紹介
数日前には幼馴染と楽しげに戯れていた夫が、今度は初恋の女を連れてホテルの入り口へと消えていく。
二人は人目もはばからず、濃厚な口づけを交わしていた。
夫の腕の中にいる女は、潤んだ瞳で彼を見つめている。一見すると純情そうだが、その眼の奥には私への明らかな悪意が潜んでいた。
妻である私は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
けれど、手の痛みより、引き裂かれた心の痛みのほうが遥かに強かった。
冷たい風が、私の髪を揺らす。
その瞬間、ふと強烈な疲れを感じた。
ああ、もういいや。
5年間の結婚生活。
私は彼を許すのをやめ、自分自身を解放することにした。
チャプター 1
結婚五年目。数日前まで幼馴染と仲睦まじく戯れていた夫は、たった今、初恋の相手を連れてホテルへと消えていった。
二人は待ちきれないといった様子で歩きながら口づけを交わし、粘着質な水音を響かせている。その仲睦まじさは、傍目には羨ましくさえ映るだろう。
男の腕の中にいる女の目尻は紅潮し、男を誘う瞳は潤んだ光を帯びていた。純情でありながら、どこか艶めかしい。
その瞳の奥に一瞬走った悪意さえ見逃せば、さらに愛おしく感じられたことだろう。
正妻である橘詩織は、その光景を目の当たりにし、凍り付いたように立ち尽くしていた。鋭く尖った爪が、掌に深く食い込む。
手の傷も痛むが、それ以上に心が痛かった。
冷たい風が彼女の長い髪を巻き上げる。
橘詩織は不意に、どうしようもない疲労感を覚えた。
五年の結婚生活。
彼女は、彼を解放し、そして自分自身をも解放することを決意した。
橘詩織は彼らを追いかけ、正妻の権利を振りかざして騒ぎ立てるようなことはしなかった。ただ無言で、西園寺玲央の部屋の外へと歩を進める。
ホテルの防音設備はそれほど良くはない。
女の甘えるような声と、男の優しく宥める声が漏れ聞こえてくる。
具体的な会話の内容までは聞き取れないが、壁一枚隔てた向こう側でどのような春の情景が繰り広げられているか、脳裏にありありと浮かんでしまう。
彼女の顔に、苦い笑みが浮かんだ。
西園寺玲央に絶えず女性関係の噂があることは知っていた。だが、それらはあくまでメディアの憶測に過ぎず、決定的な証拠が撮られたことはなかったのだ。
以前の彼女は、ライバル企業が悪意を持って捏造し、彼の名誉を毀損しようとしているのではないかと、自らを欺くように考えていた。
しかし、彼の不貞がこうして目の前で明らかになった今。
橘詩織は、見えない平手で頬を思い切り張られたような衝撃を受けた。それは、彼女が抱いていた最後の期待と幻想を、粉々に打ち砕く一撃だった。
西園寺玲央は優秀な男だが、多情でもある。
幼馴染がいて、高嶺の花がいて、そして初恋の相手がいる。先ほど彼が抱きかかえて入っていった白川亜希こそが、彼の初恋の相手だ。
この数年、彼女はずっと障害物を排除し続けてきたような気がする。
一人を解決すれば、すぐに二人目が現れる。
どいつもこいつも十分な挑発と必勝の自信を携えて現れ、彼女の精神と時間、そして西園寺玲央への愛情を消耗させていくのだ。
隣の部屋からは、もう話し声は聞こえない。
橘詩織は自嘲気味に思った。きっと二人は、この素晴らしい時間を無駄にしたくないのだろう。
彼女は廊下で一晩中座り込み、二人の出会いから結婚、そして結婚後のすべての出来事を、走馬灯のように思い返していた。
彼らの関係は、元々政略結婚だった。
西園寺玲央は決まった日に帰宅し、彼女と過ごす。
だがそれは愛からでも、夫としての責任感からでもない。
西園寺家の規定により、長男を設ければ会社の株式の10%を獲得できるからだ。その絶対条件は「正妻が生むこと」。だからこそ西園寺玲央は外でどれだけ女遊びをしようとも、決して子供の問題だけは起こさなかった。
西園寺玲央の目には、彼女はただの道具としてしか映っていない。最も親密な行為をする時でさえ、それは株式を得るための手段に過ぎないのだ。
その時、携帯電話が通知音を鳴らした。
橘詩織がロックを解除すると、悪意に満ちたメッセージが画面に躍り出た。
『私を追い出せば、西園寺玲央とうまくやっていけると思った? 夢を見ないで! はっきり教えてあげるけど、彼の中で一番大切なのは永遠に初恋の彼女なのよ!』
『今、白川亜希が帰国したわ。彼はきっとあなたに離婚を切り出すはず。あなたがどうやって追い出されるか、楽しみに待ってるわ!』
送信者は、西園寺玲央の幼馴染だ。
野心満々で正妻の座を狙っていた彼女を、橘詩織はかなりの労力と手段を使って遠ざけたのだ。
残念ながら、西園寺玲央は彼女に休息の時間さえ与えてくれない。息つく暇もなく、次の敵が現れる。
こういう女たちは、永遠にいなくならないのだ。
こんなことのために、これ以上自分をすり減らしたくない。
彼女はもう、疲れ果てていた。
橘詩織は一睡もしなかった。
疲労困憊の体を引きずり、立ち去ろうとしたその時、氷のように冷たい視線が自分に突き刺さるのを感じた。
無意識に振り返ると、そこには寒気を孕んだ西園寺玲央の視線があった。
西園寺玲央の顔色は悪く、その身から発せられる威圧感は鋭利な刃物のようだ。
「なぜここにいる?」
橘詩織は、その言葉に含まれた意味を即座に理解した。
私があなたを尾行したと疑っているの?
彼女の瞳にも、冷ややかな霜が降りる。
「私が来なければ、今日も初恋の彼女と一晩中過ごすつもりだったの?」
西園寺玲央は眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠さずに口を開いた。
「亜希が酔っ払ったんだ。俺はただ介抱しに来ただけだ」
「介抱、ね。あなたの言い訳には本当に感心させられるわ」
橘詩織は腕を組み、皮肉たっぷりに言い返す。
「既婚者の男性が、一晩中帰らずに他の女と一緒にいて、それが単なる介抱ですって?」
そう言いながらも、橘詩織は胸の奥から湧き上がる無数の痛みに耐えていた。
以前は、甘い時間も確かにあったと記憶している。
政略結婚であっても、真心は通じると信じていた。
西園寺玲央は確かに彼女に優しい時もあったが、それは彼女一人だけに向けられたものではなかったのだ。
西園寺玲央の顔色はますます陰りを帯びていく。
彼は切れ長の目を細め、怒りを抑え込むように言った。
「尾行した挙句に誣告か。橘詩織、さっさと病院へ行け。精神病なら早めに治すんだな」
西園寺玲央の嫌悪は隠そうともしない。橘詩織の脳裏に、先ほど彼が白川亜希を優しく慰めていた時の口調が蘇る。
自分に対する態度と、白川亜希に対する態度。まるで別人のようだ。
橘詩織の瞳の奥で、最後の光が砕け散った。
西園寺玲央はそう言い捨てると、大股で去っていった。橘詩織の体がふらついていることも、目の下に濃い隈ができていることさえ目に入っていないようだった。
目の前がぐるぐると回り、世界がスローモーションのように歪む。
橘詩織は壁に手をついて辛うじて転倒を免れたが、胸の痛みが激しさを増していく。
昨日、不貞の現場を押さえたにもかかわらず、彼女にはドアを開ける勇気さえなかった。
これ以上の傷と打撃を受けることなどできない。心が壊れてしまうような光景を直視するのが怖かったのだ。
想像するだけで気が狂いそうになる。
その時、背後から軽快な足音が響いた。
白川亜希が得意げな笑みを浮かべ、ゆっくりと歩いてくる。その表情よりも鮮明だったのは、首筋に残された大量の艶めかしい赤い痕跡だ。昨夜の「戦況」がいかに激しかったか、容易に想像させるものだった。
橘詩織の瞳孔が収縮する。
先ほどの西園寺玲央の言い訳を思い出し、自分が徹頭徹尾、滑稽なピエロのように思えた。
白川亜希は嫌味たっぷりに口を開いた。
「詩織さん、顔色が悪いわよ。独り寝が長すぎて体が弱ってるんじゃない?」
橘詩織は虚ろになりそうな視線を無理やり引き締め、白川亜希を一瞥すると、踵を返してその場を去った。
僥倖などない。
西園寺玲央は本当に浮気をしていたのだ。
橘詩織は重い体を引きずって帰宅すると、真っ先に弁護士に離婚協議書の作成を依頼した。署名を済ませると、それを西園寺玲央宛てに宅配便で送りつけた。
もう十分だ。
これ以上、この鳥籠のような結婚生活で消耗するのは御免だった。
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