紹介
しかし翌朝。
彼女が残したのは、たった一枚の硬貨だけだった。
「……俺の価値は、それだけか?」
冷たい笑みを浮かべる男。
彼女は表面上は笑いながら、心の中で毒づいた。
まさか彼が、ただの一夜の相手ではなく、後に自分の人生を大きく変える存在になるとは思ってもいなかった。
その後、二人は結婚。
周囲が羨むほど仲睦まじい夫婦となり、誰もが理想の関係だと思っていた。
だが、彼の元恋人が現れたことで、二人の関係に変化が訪れる。
酒に酔った彼女は、勢いのまま投稿した。
「独身。寂しい。誰か構って」
その投稿を見た瞬間、いつも冷静だった敏腕弁護士の表情が変わった。
「離婚?」
「そんなもの、俺が認めると思うか」
彼が彼女を手放すつもりなど、最初からなかった。
チャプター 1
ホテルのスイートルーム。
荒い息がようやく静まり、不二篠の爪が男の背中に赤い筋を何本も刻んでいた……。
…………
ドンドン、と乱暴なノックが続き、酔いつぶれていた意識が無理やり引き戻される。
昨夜、何が起きた?
自分の婚約パーティーで、婚約者の元カノが――自分たちがベッドでしている動画を流したのだ。
会場は笑い、視線は刺さり、篠は晒し者になった……。
酒の勢いで、彼女は見知らぬ男と一夜を共にした。しかもその相手は、法曹界で「鬼」と恐れられる敏腕弁護士――氷室悠。
最悪なのは、その氷室を、昔の自分が追いかけ回してやっと付き合えたくせに、たった一日で振り捨てたことだ。
そのせいで悠は、長い間“ネタ”にされてきた。
かつての元彼は、彼女が今の婚約者に裏切られる瞬間を目の当たりにしたあと、今度は自分が支えになろうとした――そんな皮肉。
篠は、芸能界で築いてきた清純派の看板が、今にも引き裂かれそうな気がした。
「起きたか?」
隣の男が気だるく身を起こし、煙草に火をつける。鼻で笑うような小さな息。
「不二さんと婚約者、面白い関係だな。お互い好きに遊んでるってわけ?」
篠は心の中で、口にするのも汚い罵りを投げつけた。
悠が指先を伸ばし、ベッドサイドの灰皿を引き寄せる。
「寝る前の男、って心理は何だ。婚約者を不快にさせたいだけ?」
淡々と、けれど刃のように。
「お前ら、ほんと気楽だな。好きにやって、互いにノータッチ。便利だ」
篠はシーツを体に巻きつけ、床に落ちていたガウンを拾って肩にかける。
つま先を動かして振り返ると、ベッドヘッドに寄りかかった男がいた。上半身は裸のまま、下だけを布団が薄く覆い、指には今つけたばかりの煙草。
だるさと色気が同居している。――反則級に整った顔。
深く暗い瞳が、篠にまっすぐ落ちる。言い訳でも、罵倒でも、何でもいいから口を開けと言わんばかりに。
氷室悠。帝都で一番と名を轟かせる、冷酷で手強い弁護士。
「……氷室弁護士が、どうして私のベッドに?」
「それはこっちが聞きたいな、不二さん」
悠はベッドサイドに置かれたスマホの横からカードキーをつまみ上げ、篠の目の前でひらりと振った。
篠の顔色が、見る見るうちに変わる。
――氷室と法廷でぶつかったら、丸裸にされる。
そんな噂が頭をよぎった。
よりにもよって、何でこの男を。
冷たくて、刺さる。心なんて最初から付いていないみたいな男。
「昨夜は……飲みすぎました。氷室弁護士、気にしないでください」
そう言いながらも、篠は平然を装ってベッドの足元へ歩き、床に落ちた白いシャツを拾って袖を通す。ガウンが落ち、雪のような肌があらわになる。
悠の目が細くなった。値踏みするような視線。
「不二さんは、酔うといつもそんなふうに適当に人のベッドに潜り込むのか? 男を押さえつけて無理やり?」
説明する気はない。そもそも、元恋人として関係が良好だった覚えもない。
「そうかもね。多いときは、一日に二回くらい」
篠は床のバッグを拾い上げ、中から札束を抜いてベッド横の長椅子に置いた。
「五万。昨夜、悪くなかった」
悠の顔から温度が消え、じわじわと不快が滲む。
――買う気か。俺を何だと思ってる。
「五万で一晩? 不二さん、自分を買いかぶりすぎだろ」
篠は何かを思い出したように頷き、バッグの中を指で探って、小さな硬貨を一枚つまみ出す。
「じゃあ、こっち。これが氷室様の価値」
「……は」
悠は、怒りで笑った。買うだけじゃない。侮辱まで添えてくる。
「婚約パーティーで婚約者に浮気されて、相手は無名の小さな秘書。今、不二家も藤原家もぐちゃぐちゃだ」
悠は一歩、距離を詰める。
「俺がお前と寝たって話を流したら、不二さんは何を得られる?」
ベッドを降り、床のバスタオルを拾って腰に巻く。
「俺が不二さんなら、そんな割に合わない取引は絶対にしない」
言葉が、じわじわと痛いところを抉る。
「もともと和也のこと、好きじゃなかったんだろ。なのに婚約者が、しょぼい相手と浮気。帝都で名のある不二さんの顔、どこに置くんだ?」
篠は舌打ちした。
「それ、氷室弁護士に関係ある?」
「関係ない。けど……」
悠が唇の端を歪める。邪悪なくらい楽しそうに。
「笑いものは好きでね。特に――お前の」
篠は、呆れと怒りで笑った。
「見かけによらない。氷室弁護士、スーツ着てると人間っぽいのに、脱いだら人間じゃない」
「求めに来いよ」
悠が篠の顎を掴み、低い声で言った。
篠はその手を払いのける。
「寝言は寝て言って」
…………
藤原家。
藤原和也が床に膝をつき、震えながら俯いていた。
「父さん、俺だって昨日あんなことになるなんて……あの女とは、ただの遊びで……」
「遊び? 何が遊びだ。偉くなったつもりか? 女買っておいて、よくそんな立派な口がきけるな」
「でも父さん、俺にも限界があるんだ! 篠とは婚約して一年以上だぞ、触らせてもくれない。俺だって男なんだ、欲求くらい――」
「外道が」
不二武治が藤原家の玄関先に来た途端、その言葉が耳に入った。
殴りかかろうと腕を上げた、その瞬間――どさり。武治はその場に崩れ落ちた。
…………
車内。
マネージャーの視線が、篠の頭をこじ開けて中身を確認したいと言わんばかりだった。
「誰でもよかったのに、なんで悠なのよ。篠、芸能界で生きる気ある?」
「本気になったら、悠はあなたを“買春”で潰せるのよ」
篠は内心、いやいや……さすがにそこまでは、とも思う。
「でもそれ、氷室が自分はホストでしたって認めることになるじゃない」
「あなたが買春で失うものと、あっちがホスト扱いされて失うもの。どっちがデカいと思ってるの?」
マネージャーが苛立ちを噛み殺す。
「まだ地盤が固まってないのに!」
「芸能界で、悠に顧問を頼みたがってる人間がどれだけいるか知ってる? もう……!」
篠は頭痛を堪え、マネージャーの腕に絡みつくように甘えた声を出した。
「でもさ、寝ちゃったものは戻らないでしょ。怒っても意味ないし。ねえ、それより私が損しないように、どう火消しするか考えよう?」
今朝から、取ったばかりの契約――代言、映画、広告――あちこちから問い合わせが殺到している。こじれたら違約金だけで死ねる。
マネージャーが、情けなさと怒りを混ぜた目で睨む。
「藤原家、和也とその女、二人まとめて海外に飛ばした」
「……いつ?」
篠は目を見開いた。復讐する間もなく逃がす? 藤原家、何を考えてる。
「冗談でしょ」
「冗談なわけないでしょ。あなたのお父さん、あっちで怒りすぎて倒れたのよ」
マネージャーの声が冷える。
「お父さんの面子がなかったら、藤原家があなたに説明なんてする? 今、お父さんは生死も分からない。向こうだって先に手を打つに決まってる。……その女、妊娠してるし」
篠は言葉を失った。
…………
本来なら午後はスパで身体をほぐすつもりだった。
昨夜は悠にいいようにされて、何ひとつ得をしていない。あの男、容赦がなさすぎる。心も体も休めたかったのに。
行動に移す前に、不二奈央から電話が入った。
『お父さん、死にかけてる。すぐ戻りなさい』
篠は送迎車の中、保温ボトルから枸杞茶を啜る。
「また“死にかけてる”って。で、結局死ぬの? 死なないの?」
『口答えしない。直樹と、あの隠し子たちも動いてる。戻らなきゃ、何も取れないわよ』
不二家当主の武治は、筋金入りだった。人生の最後まで、若い女が好きで好きで仕方ない。
いい歳しても隠し子が次々と名乗り出る。
篠の母――武治の二人目の妻である奈央は、そんなことには慣れきっていた。隠し子が何人いようがどうでもいい。ただ、自分たちの取り分は渡さない。それだけ。
篠が不二家の本宅へ戻ると、奈央は待ってましたとばかりに篠の腕を掴み、寝室へ引きずり込んだ。
「あとで弁護士に確認して。財産、どう分けるのか」
「前に聞いたじゃない。遺言はないって」
「今回ばかりは本当にダメかもしれない。念のため、腕のいい人を押さえるの」
「誰に?」
奈央が一瞬も迷わず言った。
「悠」
「……っ」
噴きそうになって、篠は咳き込んだ。さっきまで寝てた相手に、今から頭を下げろって?
「別の弁護士にして」
「それが一番いい選択なの」
奈央の目が重い。
「ママ、私、さっきその人と寝たばっかりなんだけど。さすがに――」
「だからいいのよ。抱いた男が一番口が軽くなるの」
言い切って、奈央は眉を吊り上げた。
「隠し子たちに、あなたの取り分を奪われたほうがいい?」
篠は黙るしかなかった。
奈央が畳みかける。
「1000億と100億。どっちを取る?」
選ぶまでもない。1000億に決まっている。
「あなたが揉めてる隙に、藤原家は“お父さんがもう持たない”って踏んで、家族ごと海外に逃げた。今のままじゃ、あなたは何も掴めない」
奈央の声が低くなる。
「お父さんがいなくなったら、あなた何で生きるの。芸能界で必死に稼ぐその程度の金? そのうち高級車も家も、エルメスも売る羽目になる。プライベートジェットで買い物? 夢のまた夢」
胸の奥が、じりじりと焦げた。
「一年か一年半もしたら、和也が子ども抱いて、妻の手を引いて、あなたの前を平然と歩く。……それ、耐えられる?」
耐えられない。
貧乏でもいい。けど、あの男が家族を見せびらかしに来るのだけは――絶対に無理だ。
屈辱だ。
篠は、息を吐いて言った。
「……今すぐ行く」
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***
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私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
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その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
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今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
人生を謳歌する
天才デザイナーの私と三つ子を、大富豪は取り戻したい
屈辱に塗れ、身一つで夜逃げするように国を去った私は、その後に彼の「三つ子」を身ごもっていることに気づく。
――6年後。
私は世界に名を馳せる天才デザイナーとなり、奪われたすべてを取り戻すために帰国した。
しかし、悪辣な嘘に目を曇らされた知暁は、私を激しく憎み、「仇敵」として冷酷に立ちはだかる。
やがてすべての真実が白日の下に晒された時、彼は己の過ちに絶望し、プライドを捨てて泣きながら私に許しを乞うた。
だが、傷つけられた私の心はもう戻らない。私は彼の懇願を、冷徹に突き放した。
――もう遅いわ。あなたを一生、許すつもりはない。
そう誓ったはずの私だったが、予想だにしない誤算があった。
私たちが産んだ愛らしい三つ子たちが、今さら戻りたいと泣く父親の、まさかの最強の味方として動き出したのだから。
竜王の花嫁
偉大なるイグナス王国を形づくる七つの村では、毎年欠かさず「選定の儀」が執り行われていた。その儀で村の娘のひとりが選ばれ、恐るべき竜王の花嫁となるのだ。
なぜそんな儀を年ごとに続けるのか、誰にもわからない。これまで選ばれていった花嫁たちが、その後どうなったのかも――。
奴隷にされているのか?
竜の餌にされているのか?
それとも……竜王自身が、彼女たちを喰らっているのか?
それだって否定はできない。王は自分たちとは違う、人ではないのだという噂があるのだから。
それでも、その疑問は執念深く人々の胸を苛んだ。
いったい、花嫁を何に使っているのか――!?
だが、誰も王に問いただそうとはしなかった。逆らうなどという無謀が、どんな運命を呼び込むかが怖かったのだ。
もっとも、そんなことはベラドンナの知ったことではない。今年は彼女の村が花嫁を差し出す番だったが、自分が選ばれるはずがないと彼女は確信していた。
なぜかって?
もちろん、計画があるからだ。そして彼女は、その計画が自分を裏切るはずがないと信じ切っていた……いや、本当にそうだろうか。
偽りの仮面
彼は、私との間に子供を授かることさえ望んではいない。
そればかりか、外では他の女性と戯れ、私の心を深く傷つける。
逃げ出したい。強く、自立した女性になりたい。
そう願う私を、しかし、彼が手放すつもりは毛頭ないようだった……。
妊娠を隠して離婚します
九条雅人は彼女の顎を荒々しく掴み、低く唸った。
絢香の頬は屈辱と興奮で真紅に染まったが、その声にはまだ意地が残っていた。「あなたこそ、私に執着しているだけじゃないの?」
雅人は冷酷に鼻で笑った。
「離婚してからどれほど経った? それでもう俺の『ルール』を忘れたか。お前の身体は、今でも俺をこんなによく覚えているくせに。……ほら、咥えろ」
熱を帯び、恐ろしいほどに猛り狂った彼の太いものが、絢香の顔を容赦なく叩いた。
雅人は冷たく笑う。
「俺から離れられるなんて夢にも思うな、絢香。お前は俺だけのものだ」
——
3年間の契約結婚の間、霧島絢香は「雅人が冷徹な人間だから、その心を溶かすことができないのだ」と思い込んでいた。
しかし、彼が桜井陽菜の妊婦健診に付き添い、彼女が少しでも不快な思いをしないよう、見たこともないほどの優しさと甘やかし方で接している姿を目撃したとき、絢香はついに悟った。彼は人を愛せないのではない。ただ、自分を愛していなかっただけなのだと。
絢香は静かに離婚届にサインし、自身の「妊娠診断書」を胸に抱いて彼の元を去った。
だが、絢香が完全に姿を消した瞬間、雅人は狂わんばかりになり、街中を血眼になって彼女を捜し回った。
ついに再会を果たしたとき、雅人の瞳は血走り、その声は掠れていた。
「絢香、俺が悪かった……頼む、俺の元に戻ってきてくれ」













