余命いくばくの私は、偽りの愛を捨てて自由を掴む

余命いくばくの私は、偽りの愛を捨てて自由を掴む

白石 茉鈴​ · 連載中 · 536.1k 文字

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紹介

長年連れ添った結婚生活。その結末が、余命宣告だった。
世間は、夫とあの女の噂でもちきりだ。
影のように生きる、見えない存在。それが今の私の立ち位置。
再び公の場で「夫婦」として肩を並べる二人を見た瞬間、糸が切れた。
もう、潮時だわ。
残されたわずかな時間くらい、誰かのためではなく、私自身のために生きてみせる。

チャプター 1

「工藤さん、検査結果ですが――急性リンパ性白血病です。しかも、もう末期に入っています。骨髄の適合を探しても……間に合わない可能性が高い」

工藤花恋は報告書を握りしめた。指先が、かすかに震えて止まらない。

病院の長い廊下で、脚の感覚が消えるほど立ち尽くして――気づけば、ふらふらと帰宅していた。

灯りは点けなかった。裸足のまま冷たい大理石の床を踏み、少しずつ、少しずつソファへにじり寄る。

ソファの角に身体を丸め、闇に沈む。そうしないと、息ができない気がした。

そのとき、スマホの画面がぱっと光り、眩しさに花恋は目を細めた。

ニュースの通知。添付された写真。

背景は煌々と輝く市の中心部。象徴的な超高層ビルが、流れる光の巨大なアート文字へと姿を変えていた。

アキナセンター

【速報。本日、三浦グループは旧・市立金融センターの買収および改称を正式に完了しました。本市最高層の当ビルは、三浦グループ社長・三浦央士氏と、重要なビジネスパートナーである岡田明菜氏の名を冠し、共同命名されるとのことです。

業界の伝説とテック界の精鋭が結びついた、ロマンティックな象徴ともいえる今回の動き――。】

眼の奥がつんと痛んだ。

胸の中心が、誰かにえぐり取られたみたいに空っぽで、静かで、冷たい。

震える指で記事を開くと、下にもう一枚、写真があった。

完璧に仕立てられた黒いスーツ。背筋を伸ばして立つ三浦央士が、きらめく岡田明菜の隣にいる。

少し首を傾け、彼女の話に耳を傾ける横顔は――冷たさが和らいで見えた。

岡田明菜は高層ビルを見上げ、瞳に驚きと感動をきらきら浮かべている。

コメント欄は爆発していた。

「やばっ、ビル買って改名って何それ。恋愛漫画が現実になったやつ?」

「岡田明菜、前世で銀河救っただろ。能力トップ、彼氏もトップ、しかも激甘で名前を空に刻むとか……私、泣く」

「これが釣り合う恋ってやつ。三浦社長の岡田教授を見る目、愛と尊敬が詰まってて尊い」

「羨ましいって言葉、もう擦り切れた。岡田明菜おめでとう、末永く!」

一つひとつが、細い針になって花恋の心に刺さる。

岡田明菜と三浦央士は、天が合わせた完璧な恋人。

じゃあ自分は、何なんだろう。

法律上、三浦央士の妻は工藤花恋だ。

その彼女が、今――夫が別の女のために、この街で一番眩しい光を買うのを見ている。

乾いた目尻を指で拭った。

痛みが極限を越えると、本当に涙は出ないらしい。

深夜。

電子錠が解錠される音が、死んだようなリビングに響いた。

三浦央士が入ってくるなり灯りを点け、ネクタイを解きかけた手が止まる。

ソファの隅に座る花恋が目に入ったからだ。

予想していなかったのだろう。眉をひそめる。

「まだ起きてたのか。なんで電気も点けずに、こんなところで」

花恋は動かない。虚ろな視線を床に落としたまま、しばらくしてようやく口を開いた。

「今日、病院に付き合うって約束したよね」

三浦央士の表情が一瞬だけ硬くなる。脱いだジャケットをソファの肘掛けに雑に掛け、苛立ちを隠しもしない。

「会社で急に重要な会議が入った。抜けられなかった」

「ニュース、見たよ」

花恋はようやく顔を上げる。青白い頬に表情はない。ただ、天井灯の冷たい光が瞳の奥に宿っていた。

「アキナセンター……すごく盛大で、すごく眩しいね」

三浦央士は眉間の皺を深くした。声が低くなる。

「明菜のチームが画期的な成果を出した。会社の今後の戦略に関わる。これは宣伝だ。余計なことを考えるな」

花恋の唇が、ほんのわずかに歪む。

自分を嘲るようでもあり、相手を見下すようでもある笑みだった。

その話題を追わず、まっすぐ彼を見て問いかけた。

「私の検査結果、どうだったか聞かないの?」

三浦央士は、今思い出したように適当に返す。

「医者は何て言ってた」

「大丈夫」

花恋は目を伏せる。長い睫毛が影を落とし、感情を全部そこに隠した。

「ちょっと貧血ってだけ」

三浦央士は二歩近づき、抱き寄せた。声は少し柔らかくなる。

「鈴木さんに言って、補血の料理を増やさせろ。燕の巣も家にある。ケチるな」

広い胸。なのに、温度がない。

ふと鼻先をかすめた、淡いジャスミンの香り。涼やかで、どこか特別な匂い。

視線が落ち、彼のシャツの肩に止まる。

微かに癖のある、栗色の長い髪が一本。

岡田明菜の髪は、綺麗な栗色の長いウェーブだった。

その一本が、心臓をきつく縛り上げるみたいに、胸がぎゅっと縮む。息が詰まった。

「三浦央士」

声はかすかで、触れたら壊れそうだった。

「いま私を抱いてるのに……あなたの心の中にいるのは、誰?」

抱える腕が、ほんの一瞬だけ固まる。

三浦央士は彼女を離し、青白い顔を見下ろした。苛立ちが滲む。

「花恋。またくだらないこと考えてるのか」

「くだらない?」

花恋は笑った。笑みの奥には、深い孤独が滲んでいた。

「三浦央士、自分に聞いてみて。あなたの心の中にいる人は、いったい誰? 本当に私の妄想?」

叫びもしない。けれど一言一言が明確で、鈍い刃で肉を削るみたいだった。

三浦央士の顔色が沈む。眉間を押さえ、怒りを強める。

「花恋、いい加減にしろ! そんなに不安なら……子どもでも作るか。祖母もずっと催促してる。子どもができれば、お前も落ち着くだろ」

花恋は途方もない冗談を聞いたみたいに笑い――そのまま、目の縁が赤くなる。

この人生で、彼女はきっと、自分の子を抱くことなどない。

花恋は彼を強く押しのけた。視線は、これまでになく決然としている。

「三浦央士……疲れた」

立ち上がる。薄い身体が照明の下でわずかに揺れるのに、声だけは異様に固い。

「もう、こんなの続けたくない。離婚しよう」

離婚。

その二文字が、静かな部屋に氷の塊みたいに落ちた。

三浦央士の顔から完全に血の気が引く。底のない冷たさが瞳に沈む。

花恋を睨みつけ、歯を食いしばるように言った。

「花恋、何を騒いでる? 結婚するときに言っただろ。対外的には公表しない。互いの私生活に干渉しない」

「今さら、どういうつもりだ」

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