氷に眠る裏切り

氷に眠る裏切り

渡り雨 · 完結 · 20.6k 文字

941
トレンド
943
閲覧数
3
追加済み
本棚に追加
読み始める
共有:facebooktwitterpinterestwhatsappreddit

紹介

十年の結婚生活。わたしは颯斗のために建築士としての図面を捨て、この家のために心血の一滴まで搾り尽くした。――それが愛だと信じていた。

けれど、終末期心不全だと告げる診断書を握りしめて家の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、夫と両親が妹の美愛を囲んで乾杯している光景だった。彼らは「合法的な書類」で、わたしの最後の手術費まで奪い取っていた。

胸を裂くような激痛に耐えながら、血を分けた家族だと縋りつき、どうか生きる道をくれと乞うた。

だが――信託契約書が容赦なく顔に叩きつけられたとき、ようやく理解した。

この人喰いの化け物たちの目には、わたしの生死など、美愛の咳ひとつより軽い。

そして、いちばん致命的な刃は、いつだって血の繋がった者が突き立てるのだ。

チャプター 1

 屋敷の外。病院の用紙を握りつぶすように掴み、指先が白くなる。息を整えることすらままならないまま、わたしはリビングの扉を押し開けた。

「乾杯!」

 澄んだグラスの音と、弾む祝福の声。針みたいに耳の奥へ刺さる。

 仕立てのいいスーツを纏ったわたしの夫・颯斗は、美愛に寄り添い、親密そうにシャンパンを注いでいた。ソファには両親が並び、にこにこと二人を見守っている。

 ……なんて、仲のいい家族。

 鈍い痛みを飲み込み、壁に手をついて一歩ずつ進む。胸の奥がきしみ、息が漏れる。

 それでも、かすれそうな声で呼んだ。

「颯斗……!」

 颯斗が振り向いた。そこにあったのは、露骨な嫌悪。

「署名しろ」

 彼は書類を一束、わたしの足元へ放り投げた。

 呆然と見下ろす。紙の上に並ぶ名前――わたしの名前。指先が震える。

「……なに、これ……?」

「信託契約だ。お前がサインすれば、共同口座とこの家の受益者は全部、美愛に移る」

 颯斗はシャンパンを一口。まるで夕食の話でもするみたいな軽さだった。

 爪が掌に食い込み、痛みで我に返る。目の前の男を睨みつけた。十年、愛した男。

「……全部、彼女に渡す気?」

「お姉ちゃん、颯斗さんを責めないで」

 美愛が瞬く間に目を赤くして、慣れた仕草で颯斗の背に隠れる。

「先生が言ってたの。わたしのうつ病、トップの施設なら治るかもしれないって。すごく大事なチャンスなの……颯斗さんは、わたしが安心して行けるように――」

「それ、婚姻中の財産よ」

 わたしは美愛の「弱い顔」を見つめた。いつもそうだ。

 すぐさま母が立ち上がり、指を突きつけて怒鳴る。

「晴美! あんた、姉としての良心はないの? 美愛がどれだけ重い病気か分からないの? 家と貯金を譲ったっていいじゃない! 颯斗が養ってくれるんだから、あんたは困らないでしょ。何を争うのよ!」

「……養って、くれる?」

 乾いた笑いが漏れた。

 わたしが家に入って子どもの世話をするようになってから、支出は全部、彼の機嫌次第。食費でさえ一日1000円ずつ渡される。足りない分は、夜中にこっそり図面の修正の仕事を受けて埋めていた。

 息を吸い直し、手に握っていた書類を颯斗へ差し出す。

「お金が必要なの。本当に。医者に言われた……心不全。手術を準備しないと、二か月もたないって」

 リビングが一瞬、しんと静まった。

 次の瞬間――颯斗が嘲笑した。

 彼は書類をひったくり、目も通さずにビリビリと破り捨てる。床へ放り投げ、革靴の先で二度、ぐりっと踏みつけた。

「晴美。美愛と張り合うために、偽の病歴まで買うようになったのか?」

 見下ろす眼は嫌悪で濁っている。

「金をせびるための芸……吐き気がする」

「嘘じゃない!」

 声が掠れた。

「ちゃんとした病院よ。印もある……正式な通知なの!」

「もういい!」

 父が茶几を叩いた。顔いっぱいに失望を貼り付けて。

「妹が病気だというのに、仮病で治療の機会を奪う気か。どうしてこんな冷血で自分勝手な娘に育った!」

 ……わたしの父。母。妹。夫。

 全員が、わたしを「敵」だと見ていた。

 胸が、ぎゅっと掴み潰される。視界が揺れ、喉がひゅうひゅう鳴った。

 わたしは膝から崩れ、床に倒れ込む。

「芝居はやめろ」

 颯斗はわたしの青白い顔を一瞥し、淡々と告げた。

「たとえお前が死んでも、妹の邪魔はさせない。――一分だ。署名しろ」

「美愛の慈善晩餐会用ドレスの試着に付き合う。時間の無駄だ」

 床の書類を冷たく見下ろし、言い捨てる。

「戻ったとき、まだここにあったら許さない」

 そう言うと、彼は背を向けた。もう二度とこちらを見ない。

 両親も美愛を優しく囲い、玄関へと向かっていく。

 わたしは胸を押さえ、床で丸まった。痛みで言葉がつながらない。

 そこへ、小さな影がしゃがみこんだ。七歳の息子、空。

 必死に手を伸ばし、少し先の電話を指さす。

「空……お願い……ママの……救急車を……」

 空は俯いた。泣きもしない。慌てもしない。

 そして――わたしの指先を、ぱんっと叩き落とした。

「美愛ママの言うとおり」

 高慢で、嫌悪に満ちた瞳。幼い声が刃になって心臓へ突き刺さる。

 心不全の痛みより、深く。

「ママは嘘つきの貧乏人だもん。救急車なんて呼んだら、パパと美愛の邪魔になる」

 空は大きな扉を閉めた。

 闇と冷たさだけが残る床に、わたしは一人きりで取り残される。

 そのとき、心臓を捻じ切るような痛みが走った。身体ががくがくと痙攣し、力が抜けていく。

 スマホに手を伸ばそうとして――指は空を掴んだ。

 ……ない。

 スマホが、消えていた。

最新チャプター

おすすめ 😍

氷の社長が溶かされていく。ストイックな彼の、灼熱の恋

氷の社長が溶かされていく。ストイックな彼の、灼熱の恋

33.6k 閲覧数 · 連載中 ·
彼女が中村良太郎の娘であるというのか。
人の行き交う喫茶店で、少女の白い顔に重い平手打ちが叩き込まれた。
真っ赤に腫れた右頬を押さえ、彼女の瞳は虚ろで、反撃する気など微塵も感じさせない。
周りの人々は、侮蔑と嘲笑の入り混じった視線を彼女に向け、嘲笑うばかりで、誰一人として彼女を庇う者はいなかった。
自業自得だからだ。
誰のせいで、彼女が中村良太郎の娘であるというのか
父、中村良太郎は建築家として、自身が設計した建物で事故が起きたため、有罪判決を受けて刑務所に入ることになった。
母も心労で入院している今となってはなおさらだ。
黒田謙志。中村奈々の現在のスポンサーであり、今朝、会社で彼女と肌を重ねたばかりの黒田家の長男。
今、彼は、自分の婚約者に跪いて謝罪しろと彼女に命じている。
社長、突然の三つ子ができました!

社長、突然の三つ子ができました!

96k 閲覧数 · 連載中 · キノコ屋
五年前、私は継姉に薬を盛られた。学費に迫られ、私は全てを飲み込んだ。彼の熱い息が耳元に触れ、荒い指先が腿を撫でるたび、震えるような快感が走った。

あの忌まわしい夜から逃げるように去った私だったが、ほどなくして三つ子を妊娠していることに気付く。

五年後、医療界の新星として戻ってきた私は、継母、継姉、実の父へ全ての仕返しを誓う。

その時、彼が現れた。三人の小さな自分そっくりの顔をじっと見つめながら、優しく「パパ」と呼ぶよう子供たちを誘う彼。

ふとシャツのボタンを外し、悪戯っぽく笑って言った――

「どうだい、あの夜の熱をもう一度味わってみないか?」
名門貴族との甘い結婚

名門貴族との甘い結婚

3.6k 閲覧数 · 連載中 · 佐藤製作所
かつて勘当した娘がホワイトシティで名を馳せたことを知り、愕然とした。産業界の巨人、学術界の権威、そしてAリストの俳優たちが、彼女のおかげで成功を収めたと口を揃えて語った。彼女の元カレは、夢の女性を選んで彼女を捨てたものの、今や彼女を取り戻そうと必死に懇願していた。しかし、彼女のそばには、背が高くハンサムな男性が立ち、「私の妻に何をしているつもりだ?」と宣言した。
その男性こそ、ホワイトシティ一の大富豪だったのだ。
令嬢は離婚を機に大富豪への道を歩む

令嬢は離婚を機に大富豪への道を歩む

652.9k 閲覧数 · 連載中 · 蜜柑
天才陰陽師だった御影星奈は、かつて恋愛脳のどん底に落ち、愛する男のために七年もの間、辱めに耐え続けてきた。しかしついに、ある日はっと我に返る。
「瀬央千弥、離婚して」
周りの連中はこぞって彼女を嘲笑った。あの瀬央様がいなくなったら、御影星奈は惨めな人生を送るに決まっていると。
ところが実際は――
財閥の名家がこぞって彼女を賓客として招き入れ、トップ俳優や女優が熱狂的なファンに。さらに四人の、並々ならぬ経歴を持つ兄弟子たちまで現れて……。
実家の御影家は後悔し、養女を追い出してまで彼女を迎え入れようとする。
そして元夫も、悔恨の表情で彼女を見つめ、「許してくれ」と懇願してきた。
御影星奈は少し眉を上げ、冷笑いを浮かべて言った。
「今の私に、あなたたちが手が届くと思う?」
――もう、私とあなたたちは釣り合わないのよ!
社長の奥様は、世界を震撼させる

社長の奥様は、世界を震撼させる

62.2k 閲覧数 · 連載中 ·
青山光は、最も信頼していた親友と男に共謀され、殺された。
亡くなる前に安田光は知っていた。自分を最も愛してくれていたのは青山雅紀だ。
彼は青山光名目上の夫である。彼は彼女の死を知ったとき、殉情した。
青山光はその時初めて、男が自分の手首を切り裂いていたことに気づいた。鮮血は瞬く間にシーツを赤く染めていく。
「やめて」青山光ははっと目を覚ました。
額には冷や汗が滲み、体は氷のように冷たい。目を開けると、そこは見覚えがあるようで、どこか見慣れない光景だった。
自分は死んだのではなかったか?
ここはどこ?
青山光はついに悟った。自分は生まれ変わったのだ。
生まれ変わったからには、青山光はあの二人に必ず代償を払わせると誓った。そして同時に、青山雅紀を守り抜くのだ。
AV撮影ガイド

AV撮影ガイド

22.1k 閲覧数 · 連載中 · 佐藤製作所
華やかな外見の下に、数えきれないほど知られざる物語が隠されている。佐藤橋、普通の女の子が、偶然の出来事によってAVに足を踏み入れた。様々な男優と出会い、そこからどんな興味深い出来事が起こるのだろうか?
家族の縁を切った日、兄たちはすべてを失った

家族の縁を切った日、兄たちはすべてを失った

281.4k 閲覧数 · 連載中 · 風見リン
前の人生で両親が交通事故で亡くなった後、長兄は世間体を気にして、事故を起こした運転手の娘を家に引き取った。
公平を期すという名目のもと、兄たちは彼女からリソースを根こそぎ奪い、その尊厳を踏みにじってまで、運転手の娘を支えた。
彼女は兄たちのためにすべてを捧げたというのに、家を追い出され、無残に死んだ。

生まれ変わった今、彼女は人助けの精神などかなぐり捨てた。許さない、和解しない。あなたたちはあなたたちで固まっていればいい。私は一人、輝くだけ。

兄たちは皆、彼女がただ意地を張っているだけだと思っていた。三日もすれば泣きついて戻ってくるだろうと高を括っていたのだ。
だが三日経ち、また三日経っても彼女は戻らない。兄たちは次第に焦り始めた。

長兄:「なぜ最近、こんなに体調が悪いんだ?」――彼女がもう滋養強壮剤を届けてくれないからだ。
次兄:「会社のファイアウォールは、なぜこうも問題ばかり起こす?」――彼女がメンテナンスに来なくなったからだ。
三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。

兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」

彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
「車が壁にぶつかってから、ようやくハンドルを切ることを覚えたのね。株が上がってから、ようやく買うことを覚え、罪を犯して判決が下ってから、ようやく悔い改めることを覚えた。残念だけど、私は――許さない!」
最強ベビーと難攻不落のママ

最強ベビーと難攻不落のママ

19k 閲覧数 · 連載中 · 彩月遥
母親が再婚したため、田中春奈はずっと自分が家の中で異質な存在だと感じており、義父や姉との関係も良くなかった。
しかし、思いもよらない策略による一夜の過ちで、田中春奈は家を追い出され、故郷を離れて海外で学業を続けることになった。
その間、彼女はあの正体不明の男性の子を妊娠していることに気づく。
迷った末、彼女は子どもを産むことを決意した。
5年後、故郷に戻った彼女は江口匠海と出会い、次第に彼に惹かれていく。
しかし、ある事故をきっかけに、あのときの男性が彼であったことを知るのだった。
届かない彼女

届かない彼女

95.6k 閲覧数 · 連載中 · 鯨井
愛のない結婚に身を投じてしまいました。
夫は、他の女性たちが私を理不尽に攻撃した時、守るどころか、彼女たちに加担して私を傷つけ続けたのです...
完全に心が離れ、私は離婚を決意しました。
実家に戻ると、父は莫大な財産を私に託し、母と祖母は限りない愛情で私を包み込んでくれました。まるで人生をやり直したかのような幸福に包まれています。
そんな矢先、あの男が後悔の念を抱いて現れ、土下座までして復縁を懇願してきたのです。
さあ、このような薄情な男に、どのような仕打ちで報いるべきでしょうか?
初恋よ、引き下がれ!

初恋よ、引き下がれ!

34k 閲覧数 · 連載中 · 午前零時
結婚してから、夫が私に触れたことは一度もなかった。
私は、彼を無性愛者なのだと思い込んでいた。……あの日、彼の裏切りを知るまでは。

夫の浮気が発覚したのは、相手の女が病院に運ばれたからだった。二人の行為があまりに激しかったせいだという。

そして、何よりも私を打ちのめしたのは、その相手が――私の実の妹だったという事実だ。

その瞬間、心臓を煮えたぎる油に放り込まれたような、耐え難い激痛が全身を貫いた。
追放された偽物の娘、その正体は最強でした

追放された偽物の娘、その正体は最強でした

29.6k 閲覧数 · 連載中 · ゲゲゲ
「本物の娘が見つかった。お前はもう用済みだ」
あの子が現れたその日、私は『偽物の娘』として家を追い出された。
渡されたのは、わずかな小銭と地方行きの片道切符だけ。
さらに婚約者は私をゴミのように捨て、その日のうちに『本物』であるあの子にプロポーズした。

……上等じゃない。せいぜい勝った気でいればいいわ。
だって彼らは、私の【本当の顔】を何一つ知らないのだから。

名門病院が見放した命を救う『天才外科医』。
オークションで数億円の値を叩き出す『伝説の画家』。
裏社会の闘技場で無敗を誇る『影の女王』。
そして――彼らの全財産すら小銭に思えるほどの『真の巨大財閥の後継者』であることを。

今さら元婚約者が土下座で許しを請おうと、本物の娘が嫉妬で狂いそうになろうと、もう遅い。
かつて私に婚約破棄の書類を叩きつけた冷酷で傲慢なCEOでさえ、今や何かに取り憑かれたように私を追い回し、「もう一度だけチャンスをくれ」とすがりついてくる始末。

私を捨てて、自分たちの人生を『アップグレード』したつもり?
笑わせないで。最初から、圧倒的に上の存在だったのは私のほうよ。
婚約破棄後、私はヤクザの組長と結婚した

婚約破棄後、私はヤクザの組長と結婚した

27.3k 閲覧数 · 連載中 · やもり
裏切りと陰謀が渦巻く世界で、妃那(えな)は突然の誘拐事件に巻き込まれる。
救いの手を差し伸べたのは謎めいた男・葉夜(かなや)だったが、彼の真意は読めない。
一方、妃那の宿敵であり自信家の祈葉(いのか)は、自らの美貌と魅力を武器に黒社会の頂点を目指すが、
思いもよらぬ残酷な試練に追い込まれていく。
誤解と嫉妬、愛と憎しみが絡み合い、
それぞれの思惑がやがて一つの危険な運命へと収束していく――。