捨てられた嫁

捨てられた嫁

桜井 ゆい​ · 連載中 · 414.8k 文字

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紹介

プロジェクトが成功を収めたあの日、夫が祝福の言葉を向けたのは私ではなかった。彼が見つめていたのは別の女、その瞳はあふれるような想いで輝いている。

やがて夫は冷ややかに告げた。

「星奈が帰ってきた。彼女は俺の子を身ごもっている」

私は掌に隠し持っていた妊娠確定診断書を、ぎゅっと握りしめた。喉元まで込み上げる苦さを必死に飲み込み、彼の目をまっすぐに見据えて、離婚を口にした。


それからほどなくして。

出国ゲートに立つ私の眼下には、人混みの中で跪くかつての夫の姿があった。衆目の中、彼は叫ぶように懇願している。

「寧音、頼む! 行かないでくれ……妊娠していたことを、今なら知っている。俺はその子の父親なんだ!」

私は冷たく、鋭い笑い声を漏らした。

「いいえ。この子は、私だけの子。父親なんていない」

チャプター 1

夜の帳が降り、星港市きっての高級住宅街は、深い静けさに包まれていた。

古川邸――。

クリスタルのシャンデリアは光量を落とされ、食卓には揺れるキャンドルの火。淡い光が、須藤寧音の整った横顔を照らす。いつもより少しだけ青白い。

今日は、古川寒弥と結婚して三周年の記念日だった。

声優界でその名を知らぬ者はいない「梵音」。

無垢な少女から威厳ある女王まで、どんな役でも自在に変幻する声は、数え切れないほどのファンに天の音として崇められている。

けれど今夜の彼女は、ただ夫の帰りを待つ、ごく普通の妻にすぎない。

フィレ肉のステーキは自分の手で焼いた。火入れはミディアム。寒弥がいちばん好きな加減だ。

秘蔵のロマネ・コンティも、すでにデキャンタで空気に触れさせてある。濃厚な果実香が静かに立ちのぼった。

テーブルの片隅、小さなベルベットのジュエリーケース。

三か月かけて人づてに注文したカフスが一組、そこに眠っている。砕いたようなダイヤで、ふたりの姓のイニシャルが刻まれていた――「H&S」。

すべてを整えた。胸いっぱいの期待と一緒に。

そのとき、玄関から暗証ロックが外れる電子音が聞こえた。

「ピッ」

須藤寧音の鼓動が、一拍ぶん落ちる。

立ち上がり、頬にやわらかな笑みを浮かべた。夫を迎える準備――そのはずだった。

だが次に響いたのは、古川寒弥の低い声ではない。

甘えた調子で、誇らしげに弾む女の声だった。

「寒弥さん、やっぱり私のことが一番大事なんだね!」

須藤寧音の笑みが、そこで凍りつく。

玄関に現れた古川寒弥は、背が高く、端正な体躯に仕立てのいいスーツ。容姿も目を奪うほど整っているのに、深い眼差しは――いつも通り、彼女へ向ける氷だった。

その腕に、白いワンピースの小柄な女が親しげに絡みついている。

西川星奈。

芸能界で頭角を現し始めた新星。清純派として売り出され、世間の好感を集めている女。

「寧音さんも、家にいたんだ?」

西川星奈は一瞬だけ、隠し切れない得意げな光を目に浮かべ、すぐに無垢な笑顔へ塗り替える。

寒弥の腕を離すと、蝶のように軽やかに駆け寄ってきて、書類の束を宝物みたいに掲げた。

「見て。寒弥さんが用意してくれたサプライズ! 私のために音楽スタジオを投資してくれたの。名前も決めてくれてね、『星の音』だって!」

「私の声は天の音で、埋もれさせるのはもったいないって。世界中に聴かせるべきだって言ってくれたの」

須藤寧音の視線は西川星奈を越え、古川寒弥の無表情な顔に落ちた。

彼は、テーブルに並ぶ料理にも、揺れる灯にも、醒ましたワインにも――そして妻である彼女にも、一度たりとも目を向けない。

この家の飾りの一つでしかない、とでも言うように。

見えない手が心臓を鷲掴みにして、ぎゅうっと締め上げた。

息が、うまく吸えない。

結婚して三年。

千日を超える孤独な夜を、冷たい背中と共に過ごしてきた。慣れたと思っていた。

それでも――こんな日にまで、こんな形で、簡単に砕かれるとは思わなかった。

喉の奥が酸っぱくなる。

須藤寧音は両手を脇に垂らしたまま、指先を少しずつ握り込んだ。爪が掌に食い込み、痛みだけが現実だった。

せめて一言。

今日が何の日か、覚えているのかと――問いたかった。

「わたし……」

その一文字が出た瞬間、男の声が刺さる。

「しゃべるな」

古川寒弥は彼女を見ないまま、苛立ったようにネクタイを引き、細い目に露骨な嫌悪を滲ませた。

「うるさい」

須藤寧音の頭の中が、真っ白になった。

長年愛してきた男を見上げるのに、血の気が引いていく。唇が勝手に震えた。

「寒弥くん……」

西川星奈がわざとらしく心配そうに袖を引く。

「そんな言い方しないで。寧音さん、きっと傷つくよ。寧音さんは梵音なんだし、声がすごく綺麗で――」

「綺麗?」

古川寒弥が鼻で笑い、ようやく須藤寧音へ視線を投げる。その冷たさは、窓の外の冬夜よりも鋭い。

「俺にとっては、価値がない」

彼はジャケットを脱ぎ、椅子の背に乱雑に掛けると、西川星奈へ言った。

「行くぞ。腹減ったって言ってたろ。レストランに連れて行く」

「うん!」

西川星奈は甘く笑い、また当然みたいに彼の腕へ縋りつく。

出ていく間際、振り返って須藤寧音に向けたのは、勝者の微笑みだった。

広いダイニングに、須藤寧音だけが残された。

呆然と立ち尽くす。

いつの間にかキャンドルは燃え尽き、蝋が涙みたいに皿へ溜まっていた。まるで、この三年、彼女の中で乾かなかったものの形。

丹精込めた食卓は、最初から最後まで――彼に一度も見られなかった。

……

深夜。

須藤寧音は冷えきったベッドの上で、膝を抱えるように身を丸めていた。眠気など欠片もない。

階下で車のエンジンが切れる音。

続けて、玄関の扉が乱暴に押し開けられる気配。

帰ってきた。

重い足音が近づき、寝室の前で止まる。

ドアが回され、開いた瞬間、濃い酒の匂いが部屋を塗りつぶした。

須藤寧音の心臓が喉へせり上がる。身体が条件反射で硬くなる。

古川寒弥はふらつきながらベッド脇へ来ると、巨体の影で彼女を覆った。

次の瞬間、身を屈めて、乱暴に彼女の寝間着を引き裂く。

「やめ……っ」

須藤寧音が怯えた声で拒むより早く、両手は簡単に押さえ込まれ、体重で押し潰される。

酒気を含んだ口づけが、逃げ道を奪う略奪みたいに降り注いだ。

愛じゃない。

これは罰だ。

三年間、ずっとそうだった。

冷たい涙が目尻から滑り、枕を濡らす。

「須藤寧音……」

耳元で、彼は何度も名前を呼ぶ。擦れた声に、骨の髄まで染みる憎しみが混じる。

「自分勝手な女だ」

「どうして……」

どうして。

須藤寧音だって知りたかった。

幼い頃、あの火事がすべてを焼き尽くした。家だけじゃない。あの夜の記憶そのものが、灰になった。

何も、思い出せない。

頭の中は空白で、残っているのは底知れない恐怖と、胸を裂く痛みだけ。

答えられない。答えようがない。

ただ、彼の「罰」を受け入れるしかなかった。

身体を貫かれる瞬間、痛みに反射的に背が弓なりになる。

闇の中、彼の低い唸りが繰り返し耳を焼き、心にまで焼き付いた。

「答えろ……須藤寧音。なんで答えない」

彼は、彼女の忘却を理解しない。

罪悪感だと決めつけ、黙ることを認めた証だと思い込む。

だから罰は、さらに激しくなる。

須藤寧音は、自分が嵐の海に放り出された小舟みたいだと思った。

翻弄され、いつ呑み込まれてもおかしくない。底のない暗い海へ沈んでいく感覚。

どれほど経ったのか。

男はようやく怒りと欲を吐き尽くし、彼女の上で重く眠りに落ちた。

身体の裂けるような痛みでさえ、胸の痛みの万分の一にも届かない。

須藤寧音は空洞の目で天井を見つめたまま、動けなかった。

夜が薄まり、窓の外がわずかに白みはじめるまで。

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長兄:「なぜ最近、こんなに体調が悪いんだ?」――彼女がもう滋養強壮剤を届けてくれないからだ。
次兄:「会社のファイアウォールは、なぜこうも問題ばかり起こす?」――彼女がメンテナンスに来なくなったからだ。
三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。

兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」

彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
「車が壁にぶつかってから、ようやくハンドルを切ることを覚えたのね。株が上がってから、ようやく買うことを覚え、罪を犯して判決が下ってから、ようやく悔い改めることを覚えた。残念だけど、私は――許さない!」