紹介
すべてが終わった瞬間、私は口を開きかけた——あと三ヶ月の命だと、そう伝えようとした。
でも、彼が先に言葉を放った。
「彼女が帰ってきた。離婚しよう」
その瞬間、私の心は死んだ。
チャプター 1
「胃がんの末期です。腹腔内リンパ節にも転移が見られます。正直、楽観はできません」
仁愛病院のVIP診察室。
相澤永知は金縁の眼鏡を外し、整った眉間に重い影を落とした。
向かいのソファに座る女は、痩せすぎて顔立ちまで変わって見える。
その姿を目にしただけで、胸の奥がずしりと塞がった。
「茜。検査結果が出た。悪性腫瘍だ」
「今すぐ抗がん剤治療を始めて、そのあと手術まで持ち込めれば、5年生存率は……」
冷えきった診断書は、日向茜の指先の中でくしゃりと歪んだ。
最後には鞄へ押し込み、革のショルダーストラップをきつく握りしめる。小さな顔は血の気を失っているのに、表情だけはひどく静かだった。
「先輩。治療しなかったら、私はあとどれくらい生きられますか?」
相澤永知の呼吸が止まる。
「……3か月から半年だ。個人差はある。でも君の状態は、今すぐ治療を始めないと、癌の拡がりを止められない!」
「結構です」
日向茜は丁寧に立ち上がり、深々と頭を下げた。
「私には耐えられません。それに、お金もありません」
「先輩、どうか秘密にしてください。誰にも知られたくないんです」
相澤永知はやるせなく息を吐いた。
茜の気性はよく知っている。いくら周りが言っても、いったん決めたら曲げない。
「わかった。口外しない」
「でも……君は結婚している。ご主人には――」
その男の話が出た瞬間、日向茜の瞳から最後のかすかな光まで消えた。
「先輩、ありがとうございました。用事がありますので、失礼します」
逃げるように背を向けて出ていく。
薄い背中は、風でも吹けば折れてしまいそうだった。
相澤永知はその後ろ姿を見送り、首を振ってため息をつく。
学院でいちばん眩しかった天才が、結婚しただけでここまで落ちるなんて。
本当に……それでよかったのか。
――プラチナ苑。
日向茜が重たい彫刻扉を押し開けても、家のぬくもりはどこにもなかった。
迎えたのは、骨の髄まで沁みる冷えきった静寂だけ。
広いリビングには、シャンデリアの淡い光が降っている。
高価な調度品さえ、どこかひやりと冷たく見えた。
その冷たい光の中心に、真田修一が座っている。
仕立てのいい黒のスーツ。脚を組み、姿勢はどこまでも優雅で、気品に満ちていた。
長い指のあいだには、半分ほど燃えた煙草。赤い火が暗がりの中でちらちらと明滅している。
日向茜は胸の内で小さく首をかしげた。
ひと月に一度会えるかどうかの男が、どうして今日に限って帰っているのか。
真田修一は彼女を見ると、わずかに瞼を上げた。
深い眼差しのまま立ち上がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
日向茜は反射的に一歩下がった。
だが次の瞬間、手首を掴まれる。
馴染んだ冷たい気配に包まれ、息が詰まった。
そのまま腰をさらわれ、身体がふわりと浮く。
日向茜の頭は真っ白になった。
半年以上、彼は彼女に触れもしなかった。
なのに、どうして今日は――。
主寝室の大きなベッドに投げ出された、その瞬間。
死にきったはずの心の底で、愚かで哀れな火種が、かすかに灯った。
もしかして……まだ、私に少しは情があるの?
そのわずかな希望が、日向茜から抵抗する力を奪った。
キスはない。前戯もない。
服は引き裂くように剥がされ、乱暴に貫かれる。愛しむような熱ではなく、奪い、罰するような激しさだった。
日向茜は絶望の中で目を閉じた。
胃をえぐる痛みと、胸の奥の鈍痛が重なり合い、意識が遠のきそうになる。
どれほど時間が経ったのか。
やがてすべてが静まった。
日向茜は乱れたシーツの中で身を縮めていた。全身には生々しい痕が散り、身体も心もひりつくように痛む。
隣の男は、もう離れていた。未練のかけらひとつ残さずに。
ほどなくして、浴室からざあざあと水の音が響いてくる。
しばらくして、真田修一が腰にバスタオルを巻いたまま出てきた。
棚から一枚の書類を取り出し、ベッドへ放る。
白い紙は、日向茜のむき出しの脚のそばに落ちた。
離婚協議書。
白地に並ぶ黒い文字が、ひどく目に刺さる。
「署名しろ」
情のぬくもりをひとかけらも含まない声。
さっきまで情事の余韻が残っていた部屋だからこそ、なおさら残酷だった。
「二度は言わせるな」
さっき胸の奥で灯ったばかりの希望は、その一言で一瞬にして冷水を浴びせられ、消えた。
日向茜は、ようやく理解した。
さっきのあれは、気まぐれでもなければ、情が戻ったわけでもない。
日向茜は必死に身を起こし、その協議書を掴んだ。
脳裏をよぎるのは診断書。
相澤永知の重苦しい表情。
そして、あの残酷な「3か月」。
人生の残り時間を、こんなみじめな形で切り捨てられて終わるのか。
「真田修一……」
自分でも滑稽で、卑しくて、情けないとわかっている期待が、ひび割れた心の底から這い上がる。
「……3か月だけ、待ってくれない?」
3か月。
多すぎも少なすぎもしない。彼女の命、そのすべて。
その言葉に、真田修一は鼻で笑った。
「日向茜。今度は何の芝居だ?」
彼は身を起こし、ゆっくりと近づいてくる。
長年彼女を溺れさせてきた深い黒の瞳に、今は欠片ほどの情もない。あるのは、凍った嘲りと嫌悪だけ。
「2年の契約結婚で、真田家から受け取った金じゃ足りなかったか?」
冷えた指先が顎をつまみ、無理やり顔を上げさせる。
「それとも、3か月あれば、まだ俺から何か掠め取れるとでも計算したか?」
言葉はひとつ残らず胸に突き刺さる。
容赦など、どこにもなかった。
「知代が戻ってくる」
真田修一は彼女を突き放し、苛立ちをにじませる。
「知代の前に、お前のその吐き気のする顔を出したくない。あいつに少しでも嫌な思いをさせたくないんだ」
知代。
林田知代。
彼の手の届かない白い花。
日向茜の顔から、さらに血の気が引いていく。
――そういうことだった。
あの人が戻ってくる。
だから、自分みたいな目障りな紛い物は、今すぐ消えろということだ。
そのとき、不意に携帯の着信音が鳴った。
真田修一が普段使う無機質なビジネス用の音ではない。柔らかく、軽やかな童謡だった。
真田修一がスマホを取り出す。
画面を見たその瞬間、冷えきっていた表情が、奇跡みたいに和らいだ。
日向茜が一度だって向けられたことのない、心の底から滲む温度。
何かに取り憑かれたように、日向茜は視線をそらし、画面を盗み見た。
たった一目で、世界がひっくり返る。
壁紙は写真だった。
遊園地を背景に、陽射しは明るい。真田修一と林田知代、そして一歳ほどの、眉目が彼によく似た男の子。三人はカメラに向かって、幸福そのもののように笑っていた。
家族写真だった。
日向茜の頭の中で、ぶん、と鈍い音が鳴った。
血が一気に頭へ昇り、次の瞬間には手足の先まで冷えきる。
一年前。妊娠を告げられたとき、胸の奥でこっそり膨らんだ喜び。
誰にも言えない、けれど確かにそこにあった小さな幸福。
そして真田修一が、無表情のまま中絶同意書を突きつけた日のことも思い出す。
『日向茜。お前に俺の子を産む資格はない』
泣きながら縋った。
膝までついて頼んだ。
返ってきたのは、部下に押さえつけられたまま手術台へ運ばれる現実だけだった。
冷たい器具が身体の奥へ入ってくる痛み。
シーツを染めた血。
それは今でも、夜ごと彼女を叩き起こす悪夢だ。
――そういうことか。
彼は、もう別の女とのあいだに子どもまで作っていた。
なんて滑稽で。
なんて残酷なのだろう。
押し寄せる憎悪と、骨まで腐らせるような絶望が、一瞬で彼女を呑み込んだ。
日向茜は真田修一を見つめる。
その瞳の光は、少しずつ、少しずつ消えていき――最後に残ったのは、燃え尽きた灰みたいな静けさだけだった。
そして、彼女は笑った。
口元が上がる。上がっていく。
涙だけが止まらず、ぼろぼろと零れ落ちた。
「……わかった」
たった一言。軽い。
けれど、その一言に彼女は人生の力をすべて使い果たした。
「離婚に同意する」
真田修一が、はっきりと目を見開いた。
泣きわめく姿も、縋りつく姿も、あるいはもっと卑劣な脅しも想定していたのだろう。
だが、こんなにもあっさり受け入れるとは思っていなかった。
「……今、何て言った?」
日向茜は、もう彼を見なかった。
ゆっくりとローテーブルへ歩き、協議書の苛烈な条項など目にも入れず、置かれていた万年筆を手に取る。
ペン先が紙を擦る、さらさらという音。
一画一画に力を込めて、自分の名を書いた。
書き終えると、ペンを放り出す。
「真田修一」
涙に濡れた青白い顔に、初めて宿る静かな決意。
「明日の朝9時、市役所で」
最新チャプター
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最終更新: 8/19/2026
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奴隷にされているのか?
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それだって否定はできない。王は自分たちとは違う、人ではないのだという噂があるのだから。
それでも、その疑問は執念深く人々の胸を苛んだ。
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だが、誰も王に問いただそうとはしなかった。逆らうなどという無謀が、どんな運命を呼び込むかが怖かったのだ。
もっとも、そんなことはベラドンナの知ったことではない。今年は彼女の村が花嫁を差し出す番だったが、自分が選ばれるはずがないと彼女は確信していた。
なぜかって?
もちろん、計画があるからだ。そして彼女は、その計画が自分を裏切るはずがないと信じ切っていた……いや、本当にそうだろうか。
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父は冤罪で獄中にあり、母は病に伏せっている。
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そんな折、家に潜り込んでいた偽令嬢は状況を見るや否や一家を見捨てて姿を消し、さらに屋敷までも奪い取ろうとしていた。
世間は夏川家を「落ち目の負け犬」と嘲笑い、皆がこぞって踏みにじる。
紅蓮が静かに一声を発すれば、暗部より無数の異能の士たちが姿を現し、形勢は一瞬にして逆転する。
父は無実のまま出所し、母は健康を取り戻し、廃人同然だった長兄は再び己の足で歩き出し、残る五人の兄たちもまた紅蓮の導きによって各々の才覚を花開かせ、やがて各界を牽引する大物へと成り上がっていく。
しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
「夏川紅蓮は地味で野暮ったい田舎者だ」と。
何を隠そう、彼女は無数の隠された顔を持つ存在。
神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
そして、暗部を統べる首領さえも——彼女なのだ。
そんな折、頂点に君臨する名門の若様が、彼女をそっと腕のなかに抱き寄せた。
「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」
紅蓮が流し目をひとつ送る。
「婚約、破棄しなくていいの?」
「しない」
彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。













