紹介
神宮朔――日本有数の財閥グループの若き社長。
彼には、誰にも知られたくない秘密があった。
女性に触れられるだけで、激しい吐き気に襲われる。
そんな彼と、人生最悪の夜、浅野祈は一夜を共にした。
父の失踪で多額の借金を背負い、恋人にも裏切られた祈は、翌朝、彼に一万円だけを残して逃げた。
もう二度と会うことはない――そう思っていた。
なのに、彼は祈を追ってくる。
なぜなら、祈にだけは触れても、何も起こらなかったから。
「君だけだ。初めてだ。人に触れて、こんなふうに感じたのは」
それから朔は、祈を独占し、溺愛し、決して手放そうとしない。
借金を肩代わりし、危険から守り、そして告げた。
「君を、妻にする」
なぜ、私なのか。
その理由を知ったとき、祈は動けなくなる――。
チャプター 1
痛覚が、意識より先に目覚めた。
祈が目を開けた瞬間、股関節から大腿の内側にかけての鈍い痛みが全身を固まらせた。
天井が高すぎる。ベッドが広すぎる。空気の中にミント、タバコ、シダーウッドの残り香が漂っている。
寮じゃない。
祈は上半身を起こした。シーツが滑り落ちる。
鎖骨から肩甲骨にかけて、青紫色の吸い痕と歯型が点々と刻まれていた。
床には、あの花柄のワンピースの残骸が散らばっていた。ファスナー部分から真っ二つに引き裂かれている。
ソファの肘掛けには深いグレーのスーツジャケット。金色のステッチが朝の光の中でぎらついていた。
記憶の欠片が、一気に押し寄せてきた。
薄暗いボックス席。誰かのネクタイを掴んでいた自分の手。限界まで抑えていた相手が突然解放した、あの重さ。
暗闇の中で、引き裂かれるような痛みに堪えながら、背中に爪を立てていた。皮肉に食い込むほどに。
全部、思い出した。
目の奥が、じわりと熱くなった。
桐島奏汰が図書館で綾瀬此花を抱きしめてキスをしていた光景が、すぐ後に浮かぶ。
祈は奥歯を噛みしめた。舌の先に鉄の味が広がる。
もういい。
痛みが、崩壊の淵から彼女を引き戻した。
シーツを体に巻き付けて、冷たい大理石の床に素足で立つ。
服を見つけて。着て。出て行く。それだけでいい。
しゃがんでワンピースをひっくり返してみたが、縫い目に沿って裂けた布は、修繕できるような状態じゃなかった。
バスルームのドアは三メートル先にある。
祈は歯を食いしばって立ち上がり、シーツを引きずりながらそちらへ向かった。
その瞬間、ドアが内側から開いた。
水蒸気が逆光の中に広がって、その中から男のシルエットが浮かび上がる。
濡れた黒髪を後ろへ流し、百八十六センチの長身がドア枠をほぼ埋めていた。
腰には白いバスタオルを一枚巻いただけ。肩から腹筋へと続く輪郭の上に、昨夜の祈が刻んだ赤い爪痕が数条、まだくっきりと残っている。
祈の足が、その場に縫い止められた。
その顔——冷たく彫りの深い造形。頬骨の稜線が、刃物で削り出したように鋭い。
だが最も不穏なのは、その目だった。
男性接客業者が浮かべるような愛想笑いとはほど遠い。どこか俯瞰するような、冷たい眼差し。
祈が先に沈黙を破った。
トートバッグを引き寄せてポケットを探り回し、くしゃくしゃの一万円札一枚とボールペンを取り出す。
ベッドサイドのホテルメモ用紙を引き剥がして、金額、日付、分割払いのスケジュールを力強く書き込んだ。
手が震えていた。それでも文字の形は、課題を提出するときのように几帳面に整っていた。
一万円札と請求書を、ベッドサイドテーブルの上に叩きつける。
「昨夜のあなたのサービスは乱暴すぎた。おかげでひどく痛い。これは最低限の基本給。残りは給料が出たら振り込む」
声が震えていた。それでも祈は顎を上げて、自分より三十センチ近く背の高い男を真正面から見返した。
神宮朔の視線がゆっくりと下に動き、一万円札と手書きの請求書の上に落ちた。
五秒間、沈黙が続く。
瞳の奥で、何かがかすかに揺れた。
怒りじゃない。怒りより複雑で、深くて、掴みどころのない何か。
口の端がわずかに上がりかけて——次の瞬間、平らに戻った。
祈は彼が口を開く前に背を向けた。目指すのはバスルームだ。
浴衣に着替えて——違う。浴衣でホテルのロビーを歩いて出るつもりか?
無理だ。
でも、あのワンピースしか服がない。
バスルームのドアまで一メートルというところで、足が止まった。
絶望が冷水のように降り注いでくる。
その場に立ち尽くして、シーツの端を指で絞りながら、祈は自分が透明なガラス箱に詰め込まれた虫みたいだと思った。どこにも行けない。しかもこの男の前で、みっともない姿を晒し続けている。
背後の気配が近づいてきた。
足音じゃない。この男は、ほとんど音を立てずに歩く。
ただ、あの乾いたシダーウッドの香りが、突然濃くなった。
祈は本能的に背中を強ばらせた。視界の端で、横から一本の手が伸びてくるのが見えた。
節くれ立った、指の長い手。何も身に着けていない。
その手の指先に、白い男性用シャツが畳んで掛かっていた。
祈は横を向いた。
彼は一歩も離れていないところに立っていた。わずかに前傾みになった姿勢が、二人の間の圧迫感をさらに強める。
その目が上から彼女を見ていた。瞳の奥に、異様に集中した何かがある——自分にはルールがまったくわからない実験を、遂行しているような目。
祈はシャツを受け取ろうと手を伸ばした。
指先が、彼の剥き出しの指骨の上を滑った。皮膚同士が触れたのは一瞬に過ぎなかった。
祈はその接触が起きたことすら気づかなかった。
だが、朔の呼吸が止まった。
何かに打ち抜かれたように、全身が固まる。瞳孔が急激に縮んで、喉仏がかすかに上下した。
嫌悪はない。拒絶反応もない。
三十年間、ずっとそこにあったはずのもの——女性に触れられるたびに胃の底から込み上げてくる吐き気、窒息感、全身の筋肉が痙攣するあの震え——
起きなかった。
あったのは、乾いた、ほとんど温かいとさえ言える静寂だけだった。
この男の内側で何かが地殻変動を起こしていることなど、祈にはまるでわからなかった。
ただ一つだけ感じた——彼の視線が、重すぎる。
その重さが、横顔から耳に、耳から首筋へと伝って、じわじわと自分を押し潰していくような感覚。
頭皮がじんとした。
祈はシャツをひったくってバスルームへ飛び込み、後ろ手にドアを叩きつけた。
ドアが震えた余韻が、静かな部屋の中で二秒ほど続いて、消えた。
朔はシャツを差し出したままの姿勢で、動かなかった。
閉じたバスルームのドアから視線を外して、ゆっくりと自分の右手の甲に落とす。
彼女が触れた、あの小さな皮膚の一区画。
手のひらを裏返して、長い時間、見つめ続けた。
バスルームの中で、祈は冷水で顔を叩いて、鏡に向かって深呼吸した。
映っている自分は散々な有様だった。
でも、それを細かく確認する時間はない。
白いシャツを羽織る。裾は太ももの中ほどまでくる。袖口を三つ折りにして、やっと指先が出た。
布地に残るシダーウッドの匂いが、体を包んだ。
祈はバスルームのドアを開けた。
部屋の空気が変わっていた。
朔はすでに完全に身支度を整えていた。
深いグレーのスリーピーススーツ。シャツの一番上のボタンまで留めて、ネクタイを締めている。
そしてその手には——祈はすぐに気づいた——手袋が加わっていた。
マットブラック。極薄で、それぞれの指骨の輪郭に沿って密着している。素材は何か非常に高価な皮革のようだった。
数分前にシャツを差し出してきたとき、確かに何もつけていなかった。
今、落地窓の前に立つ男は、あの素手の男とは、何かによって隔てられているようだった。
全身から冷たい、近寄りがたい圧迫感が滲み出ている。
祈はその手袋から目を逸らした。
関係ない。
トートバッグを肩に掛けて、視線をドアに向ける。
「もう二度と会わない。道で会っても、知らない人のふりをして」
返事を待たずに、祈はドアを引き開けて廊下へ飛び出した。
ドアの閉まる音が、背後のすべてを断ち切った。
部屋の中。
朔は閉じたドアを見つめ、その顔の輪郭がゆっくりと変わっていった。
笑みではない。笑みより冷たく、深く、どこか捕食的な弧を描いていた。
右手を持ち上げて、極薄の羊皮越しに、彼女が触れた場所に指先を当てて、静かに撫でた。
ポケットから携帯を取り出して、一つの番号に発信する。
「千葉。今出て行った女を調べろ」
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誰も想像すらできないだろう。この私が、数々の名門貴族や権力者たちが大金を積んで列をなし、首を長くして診察を待つ伝説の名医——【暁】だなんて。
私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。
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彼女の小さな宝物が飛び出して彼の前に立ちはだかり、腰に手を当ててこう言った。「ママに追いつきたいなら、まず列に並んでね!」
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「いいよ。」
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「?」
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「『唯一の兄』だと……? じゃあ、俺たちはお前の何なんだ!?」
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屈辱に塗れ、身一つで夜逃げするように国を去った私は、その後に彼の「三つ子」を身ごもっていることに気づく。
――6年後。
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やがてすべての真実が白日の下に晒された時、彼は己の過ちに絶望し、プライドを捨てて泣きながら私に許しを乞うた。
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