紹介
あの朝まで、彼は私が破れたストッキングを拾い集める姿を眺めながら、事務的な口調で警告した。
「果歩が俺と付き合うことになったから、今後会社では俺とあまり話さないでくれ。果歩は純粋で、とても繊細なんだ。君を見かけたら嫉妬して、彼女を不快にさせてしまうかもしれない」
私は泣きもせず騒ぎもせず、振り返ることなく東京の冬雨の中に消えた。
その後、椎名グループの御曹司が狂ったように神南湾の海岸線を隈なく探し回っていたと聞いた。
でも、もう誰かの「友達」になるつもりはなかった。
チャプター 1
目を開けると、身体中がバラバラになりそうなほどの倦怠感に襲われた。
三年が経っても、椎名湊のあの強引な求め方には、どうしても慣れることができない。
寝返りを打つと、隣はすでに空だった。
湊は姿見の前に立っていた。朝の光が彼の裸の背中に落ち、冷淡で美しい筋肉の陰影を浮き立たせている。どこか人を寄せ付けない空気を纏いながら、彼は気だるげにカフスボタンを留めていた。まだ眠気が残っているのか、瞼は半分ほど落ちている。
「起きるの早すぎないか?」
朝特有の、少し掠れた声だった。
腰の鈍痛に眉をひそめながら、私は床に落ちているストッキングを拾おうと身を屈めた。昨夜、彼の手によって無惨に引き裂かれた黒い糸の塊だ。
湊が振り返り、私が着替えようとしていたコットンの下着を指先で摘み上げた。口元に、薄い嘲笑のようなものが浮かぶ。
「結衣、お前はいつもこういう地味なやつばかりだな。たまにはもっと色気のあるものにしたらどうだ?」
私は下着を受け取った。
「じゃあ次はブランドを変えてみる。どんなのが好きなの——」
湊は私の言葉を遮った。
「いや、いい。あとで玄関のパスワードを変えておくから、もうここには来るな」
私はその場で凍りついた。
椎名湊とこういう関係を続けて三年になる。
最初はたまに。そのうち残業がない日は、ほとんどこのマンションの半同棲人のような生活を送っていた。
彼のシャツにアイロンをかけ、しじみ汁を作り、週末はソファで映画を見ながらスナック菓子を食べる。まるで本当の恋人のように夜を過ごしてきた。
時間が経つにつれ、私は錯覚すら抱いていた。言葉にしなくても、これは「付き合っている」ことなのだと。私たちには未来があるのだと。
それなのに今、彼は「もう来るな」と言い放った。
私は反射的に尋ねていた。
「実家にお見合いでもセッティングされたの? それとも最近仕事が忙しいから? 私なら——」
彼はアイランドキッチンに置いてあったスマホを手に取り、画面を点灯させて私の目の前に突き出した。
「違う。果歩がOKしたんだ」
その名前が誰を指すのか理解するのに、数秒かかった。
宮下果歩。会社に入ってきたばかりの新人。二十三歳。控えめで上品な笑顔を見せる子だ。
ここ数年、湊の周りには女が絶えなかったが、どれも長続きしなかった。今回もただの気まぐれだと思っていた。
喉が渇いて張り付くようだ。
「本気なの?」
湊は笑った。
「本気だ」
画面にはLINEのトークルームが表示されていた。相手からの短いメッセージ。
「椎名さんとなら、私、喜んで」
湊はスマホを引っ込め、鏡に向かってネクタイを整えながら、事務的な口調で私に釘を刺した。
「果歩は今までの女とは違う。すごく純粋で、感受性が強いんだ」
「結衣、これからは会社でもプライベートでも、極力俺に話しかけるな。距離を置け。果歩が見て嫉妬したり、機嫌を損ねたりしたら困る」
窓の外の陽光はあんなに明るいのに、全身が芯から冷えていくのを感じた。
彼にとって私の存在は、彼の「純粋な恋」に対する汚点でしかなかったのだ。
「わかった」
数秒後、自分の声とは思えないほど冷静な声が出た。
「じゃあ、荷物をまとめてすぐ出て行く」
「そんなに急がなくてもいい」湊は腕時計に目を落とした。「賃貸の更新、もうすぐだろ? 新しい部屋が見つかるまで数日くらいならいてもいいぞ」
恥辱が平手打ちのように頬を張った。私は目を閉じた。
「いいえ、今日出て行く」
何に焦っているのか自分でもわからなかった。湊の言う通り、東京に他に頼れる場所なんてない。
けれど、一刻も早くここから逃げ出したかった。大勢の人に見つめられて裸にされているような、一秒一秒が拷問のような気分だった。
このマンションに、私の荷物は驚くほど少なかった。
彼の生活の世話をするために買い足した雑貨を除けば、私自身の所有物はリュックサック一つすら満たせなかった。
この三年間、私が残した痕跡なんて、たったこれだけの重さだったのだ。
玄関を出ようとした時、湊が私を呼び止めた。
彼は上半身裸のまま壁に寄りかかり、煙草に火をつけていた。
「結衣、お前ももうすぐ三十だろ。いつまでも一人でいないで、そろそろ身を固めること考えろよ」
彼は紫煙を吐き出し、淡々と言った。
「これからも、俺たちは一番大事な友達だからな」
私はその言葉の裏にある意味を理解し、頷いた。
東京の冬はいつも骨まで染みるような湿った寒さだ。北国のさらっとした寒さとは違い、じっとりして息が詰まる。
ビルを出ると、空から霙混じりの雨が降ってきた。冷たい湿り気が頬を打つ。
空を見上げる。さっきまで晴れていた空は、いつの間にかどんよりと曇っていた。湊と一緒に東京に来てから、記憶の中の天気はいつもこんな灰色だった気がする。
突然、無性に神南湾が恋しくなった。
故郷の海辺の寒さは凛としていて、一晩中大雪が降った翌朝、ドアを開ければ世界は白一色。清潔で、清々しい。
東京の雨のように、ねっとりと心に澱むことはない。
私はリュックを足元に置き、品川駅の路肩に立って実家に電話をかけた。
母はすぐに出た。驚きと、どこか遠慮がちな声だった。
「結衣?」
冷たい空気を吸い込み、ツンとする鼻をこすった。
「お母さん、家の味噌汁が飲みたい」
母の声が弾んだ。
「じゃあお父さんに魚を買ってきてもらおうか? 最近新幹線の切符は取れるのかい——」
「いいの。私、今年はお正月に帰るから」
母が一瞬言葉を詰まらせ、すぐに歓声に近い声を上げた。
「本当に?」
「うん」
私は空を仰いだ。涙がこぼれないように。
雨水が目に入ったのか、視界が滲んで仕方がない。
睫毛についた雫を瞬きで払い落とし、私は掠れた声で言った。
「お母さん、私、仕事辞めたの。もう実家に帰ろうと思う」
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(この小説を軽い気持ちで開くなよ。三日三晩も読み続けちゃうから…)
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